大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

日中戦争期の1937年に60万平方メートルの規模へと拡張し、中国爆撃のための前進基地として使用した。そして、太平洋戦争末期にさらに拡大した。

2024-08-16 | アジア各国から
 

【現場】済州アルトゥル飛行場に行けば、

日帝強制動員の実体が一目でわかる(1)

登録:2024-08-16 00:43 修正:2024-08-16 10:22
 
 
              格納庫に設置された、日本軍のゼロ戦をモデルにした作品=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 光復節を翌日に控えた14日午前。済州南西部の西帰浦市大静邑(ソグィポシ・テジョンウプ)のアルトゥル飛行場一帯は静かだった。済州市(チェジュシ)にはこの日の明け方に久しぶりに豪雨がひとしきり降ったが、大静地域は青空に雲が立ち込めていた。大静から松岳山(ソンアクサン)へと向かう道路の右にある「予備検束ソダルオルム遺跡1.9キロ、百祖一孫墓域2.1キロ」という赤褐色の地に白い文字が記された表示の横に入ると、トラックが通れるほどの農路が現れた。干ばつのせいか、農路は土ぼこりで覆われていた。

 農道をはさんで石垣が続く。チュンチュンというスズメとセミの声がハーモニーを奏で、ムクドリが拍子を取って周囲の静けさを破っていた。畑の真ん中にある格納庫(正確には「有蓋掩体(ゆうがいえんたい)」という)が妙な風景を演出していた。靴がずぼずぼと取られる畑を通って格納庫の上に登ると、遠くでトラクターが土ぼこりを立てながら格納庫の間で畑を耕しているのが目に入った。今月下旬から始まるニンニクの作付けを前に畑を耕しているのだ、と通りがかりの農民が言った。

 
 
西帰浦市大静邑伊橋洞の日本軍の軍事施設跡が整備されず、風化しつつある。2017年と現在の様子=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 この一帯は「アルトゥル飛行場」と呼ばれる。済州島の戦跡を研究した日本人研究者の塚崎昌之さんによると、日帝は1932年から33年にかけて「済州島飛行機不時着陸場」という名で20万平方メートル規模のアルトゥル飛行場を建設した。その後、日中戦争期の1937年に60万平方メートルの規模へと拡張し、中国爆撃のための前進基地として使用した。そして、太平洋戦争末期にさらに拡大した。

 日本は1945年初め、戦況が不利になると済州島を日本本土死守のための舞台と想定し、満州の関東軍など6万5千人あまり(朝鮮人徴兵者1万5千人あまりを含む)を済州に集結させるとともに、各種の重火器を配備するなど、済州島全体を要塞化した。アルトゥル飛行場を拡張し、高射砲陣地と坑道陣地を構築する一方、松岳山海岸の絶壁には米国の軍艦を撃破するための魚雷艇を配備する洞窟を掘った。

 この一帯は朝鮮半島で日帝の侵略戦争の痕跡が最もよく見られる場所の一つであり、強制動員の象徴性を帯びた場所でもある。日帝は米軍の上陸予想地点を済州西南部地域と想定したため、済州道民は同地域に集中配置され、強制労働に苦しめられた。

 
 
アルトゥル飛行場一帯にある各種の案内板。飛行場内の案内板(左)と駐車場に設置された案内板=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 格納庫の建設に動員された中文面(チュンムンミョン、当時)のキム・ヨンチュンさんは、かつての記者とのインタビューで、「17歳だった1944年から5回労務に動員され、1カ月ずつ飯場(寮)に住み込みで働かされた。当時、面から村ごとに数人ずつ選抜しろと言われたら、班ごとに数人ずつ動員されなければならなかった」と話した。キムさんは「飛行機の格納庫のコングリ(コンクリート)を打つために砂利やセメントを背負子で運び上げた。上は草で覆い、上空から見えないように偽装した」、「背負子を背負って格納庫の上に登る途中で滑って転んで膝の骨がとび出した」と話した。

 
 
日帝強占期に建設された済州西帰浦市のアルトゥル飛行場一帯の格納庫は、日帝の侵略戦争だけでなく、済州島民の強制動員の実像を示している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 格納庫の一つには、2010年に作家のパク・キョンフンさんとカン・ムンソクさんが制作した、日本軍のゼロ戦を模した作品「愛国機売国機」が設置され、訪れる者の目を引く。植民地朝鮮の親日地主と資本家たちが日本に献納した戦闘機に着目した作品だ。しかし作品が設置されて14年がたっているため作品の一部が壊れており、横には整理されていない古いゴミの山があった。

 
 
アルトゥル飛行場一帯にある日本軍の地下バンカーの様子。2017年にバンカーの上の樹木が伐採されて整備されたが、今は再び樹木に覆われている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 国民学校(小学校)を卒業してから2カ月あまり後の1945年5月、16歳だった安徳面(アンドンミョン)のカン・ヒギョンさんは強制動員された。

 「父が病気の時だったので、代わりに働きに行った。あの時は各家から一人ずつは義務的に行って練兵場(モスルポの日本軍部隊)の仕事をした。幼かったしどこなのか知らなかったので母に連れて行かれた」

 坑道陣地と高射浦陣地へと向かう道路沿いには案内板がない。坑道陣地は、約20年前までは日帝の戦跡をフィールドワークする人々の必須コースだったが、今はフィールドワークする人もあまり行かない。狭い道に沿って200~300メートル入って行くと現れる坑道陣地入口は、「崩壊危険地域」という立て札が掲げられるとともに、内部を見ることができないように塞いであった。案内板は坑道陣地の入り口にあった。

 「穴から土をつるはしで掘り出したら、トロッコで外に運んだ。押して行って土を捨てて、また入った。昼夜交代しながら働いていたのだが、要領がつかめない。ああ、そもそもぐずぐずしているわけにもいかない」(2に続く)

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

 

【現場】済州アルトゥル飛行場に行けば、日帝強制動員の実体が一目でわかる(2)

登録:2024-08-16 00:41 修正:2024-08-16 10:23
 
 
2010年には坑道陣地内部への立ち入りが可能だったが、崩壊の危険性があることを理由に今は内部がのぞけないよう閉鎖してある=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

(1の続き)

 坑道陣地の上の高射砲陣地は、済州オルレ(散策路)10コースが通る。以前は南に松岳山(ソンアクサン)と海、北西にモスル峰が見えたが、今は森が成長したため眺めることができない。散策路を歩いていたキム・ジュニルさん(45)は、「済州道民の強制動員の実情を詳しく知ることができるとよいのだが、昔の高射砲の痕跡がわかる程度。もう少し親切な案内板が必要だし、周りの木を整理すれば見渡せるはずなのに残念だ」と話した。

 南元面(ナムウォンミョン)のキム・ウプムさんも15歳だった1943年に「勤労報国隊」という名で強制動員された。同氏は「あの時は幼い人であろうが年配者であろうが、みな労務者として送られた。ある日、面事務所に集結しろと言われて行くと、私がいちばん若かった。大静の上モ里(サンモリ)の兵舎新築工事の現場で1カ月ほど働き、家に帰ったら1カ月ほど後にまた行って働かなければならなかった。石を置いてセメントを打って高射砲陣地を作るのにも動員された」と話した。

 
 
セダルオルムの上に設置された高射砲陣地の変遷。1945年10月に米軍による武装解除で破壊され(左)、木を伐採した2006年10月と木が育った今の様子。背後の松岳山の中腹には済州道民が構築した連合軍の戦車の阻止線が見えるが、今は松林となった=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 トラクターが畑を耕して立てている土ぼこりの間を、ツバメが低く飛びながら餌を探している。やがて青い空へと昇っていく。8月15日が近づいているが、2時間あまりの間にアルトゥル飛行場一帯で出会った観光客は2人のみだった。済州道はこの場所での平和大公園造成事業を推進している。コンテンツの貧弱さを懸念する人もいる。格納庫の前で5年間にわたって300坪規模の豆もやし用の豆畑を耕作しているKさん(62)は、「学生や外国人がたくさんやって来るが、最近は暑いせいか来ていないようだ」と話した。豆畑で草取りをしていたKさんは、「平和大公園を作るというが、私たちは農地を差し出すだけということになる。誰が喜ぶか」と話した。この一帯の駐車場には案内文が複数散らばっている。整備が必要に思える。格納庫の見学に訪れた観光客のシン・スンウさん(24、全羅北道)は、「こんな遺跡が残っているのは驚くべきこと。せめて案内文がきちんと整備されていたらいいのに、何か物足りない感じ。遺跡の立派さに比べてコンテンツが不足していると思う」と話した。

 
 
今月10日に開館した西帰浦市大静邑の「百祖一孫歴史館」。朝鮮戦争期のソダルオルム予備検束の犠牲者を追悼し、歴史教育の場として活用するために設けられた//ハンギョレ新聞社

 格納庫のすぐそばには、朝鮮戦争勃発直後に予備検束を大義名分として拘禁された252人の住民(41人は行方不明)が虐殺された「ソダルオルム予備検束犠牲者追悼碑」が立っている。今月10日にオープンした「百祖一孫歴史館」には、「予備検束と集団虐殺の加害者」と題して、軍と警察の指揮・命令系統の最高責任者として「大統領李承晩(イ・スンマン)」を掲示している。済州4・3事件の頃に「過酷な方法」を動員して済州島事態を鎮圧せよと指示した大統領李承晩は、2003年に政府が発表した「済州4・3事件報告書」でも大量人命被害の最終責任者とされている。

 済州現代史の研究者は、「アルトゥル飛行場一帯は日帝の強制動員と李承晩の実体が分かる場所」だとして、「平和大公園建設に先立って歴史教育の場として利用できるよう、案内板と遺跡周辺の整備作業が必要だ」と語る。

 国内外で推進される李承晩元大統領の記念事業に反対してきた済州4・3諸団体は、最近の声明で「KBSが準備中だといわれる李承晩のドキュメンタリーは、済州4・3事件などの現代史の主要事件に対する一方的な視点を含んでいる」として、放送の中止を求めている。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日米協議で「核拡大抑止」に... | トップ | 靖国神社は、歴史に目をつむ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

アジア各国から」カテゴリの最新記事