かもて通信  ☆新上五島町中央山脈より発信☆ ☆個人的議会だより「かもて」のブログ版です☆

camoteはさつまいもという意味ですが、愛しい人を指すのにも使われていました。島の人々が愛する作物でもあります。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

祖父と戦争① おじいちゃんからまごへのせんそうのはなし

2014-09-03 14:13:46 | 祖父と戦争

祖父の死後13年も経って、突然その従軍の手記が手元に来たのは偶然ではないようにも思える。

これを書いている2014年現在の日本は、彼の大戦の反省をことごとく忘れて、喪われた多くの命を踏みにじるような政策が国家権力によって次々と打ちたてられ既成事実化し、金銭の腐臭ときな臭さが鼻につく戦争前夜・・そんな時代だからかもしれない。

数年前より、幼い自分に時折、それもポツリポツリと、祖父によって語られた戦地の話がなぜか思い出されて仕方がなかった。それを母に話したところ、これまで存在すら知らなかった祖父の戦地の記録が突然現れたのである。

祖父の手記が掲載されているのは「続 第六十五旅団 夏部隊の記録」で、終戦後40周年の節目に戦友会が企画出版した880ページに及ぶ文集。その9割が死亡と言われる地獄の戦場から生還した元兵士たちによる貴重な記録だ。しかし母によれば祖父は、自分の娘息子にも、ここに寄稿していることを話さなかったらしい。祖父が死ぬわずか前に母がこれを受け継いだのもまた、偶発的な必然なのかもしれない。祖父が何を思って戦後50年余りを生きたのか・・残念ながら今となっては知る由もないけれど、この、祖父とその戦友たちが書き残した記録を紐解き、無名の兵士たちの壮絶な体験を少しでもまとめ、誰かに伝えたい・・・いや、伝えなければいけない気持ちに駆られて書き始めたのである。

 (写真)

右から
・丸亀 歩兵第十二連隊 百十年祭記念誌
・夏部隊の記録
・続 夏部隊の足跡(総集編)
上は「続夏部隊の足跡」帯。

帯の記載文
「比島、ニューブリテン島及 マーシャル諸島に於ける 思い出の記録」「比島、ニューブリテン島及マーシャル群島に於ける苦闘の体験を、四十年の歳月を重ねて今ぞ共に語り、分ち合う・・・ 弾薬、糧秣の補給なく、灼熱瘴癘の地、飢餓の極、遂に果てた亡き戦友のことを涙しつつ語り、この記に蘇らし度いと念じながら・・・」

 

<おじいちゃんからまごへのせんそうのはなし>

祖父はあまり、戦争体験を語らなかった。ただ、ごくたまに、戦争の話ではなく遠い異国の体験を聞かせるように話してくれたいくつかのエピソードがある。今も覚えているのは、同じシーンだけ繰り返し聞いたからだと思う。

誰が死んだ、どのように死んだというような悲惨なシーンではなく、また自分たちを戦場に駆り立てた者に対する恨みごとも無かった。戦場におけるつかの間の楽しみや幸運だけを祖父は孫に語った。あるいは他は語りたくもないことだったのかもしれない。

祖父の手記を読んでつながった記憶もあるので、記憶違いもたくさんあることとは思うが、覚えている限り、なるべく祖父の語りそのままに、書きとめておきたい。

 

一円バナナ

兵隊がいるところに、土人がたくさん物を売りに来るんだよ。バナナとかパパヤーとか、食べたいけどもお金がないから食べられなくてね。試しに日本の一円玉(もしかしたら一銭?)を出してみたら、喜んでバナナを房ごとくれたんだよ。びっくりしてどうするんかと思て見とったら、一円玉を上手に石で叩いて伸ばして、耳輪や鼻輪を作るんに、珍しいから欲しがる。アルミはやらこいからね。でも帰ってその話をしたら、バナナが欲しくて兵隊がみんな一円玉を出すようになって、一円玉3つでひと房になって・・・そのうち一円玉はもういらんと言われてしまったんだよ。

 

ジャングルの果物

みんなお腹をすかしてジャングルの中を歩いていたら、何か実が成っとる。おじいちゃんはそれは毒だと思ったから、「食べるな~、食べるな~!」と言ったけれども、みんなお腹がすいているからやまらない。おじいちゃんはなんとか我慢したから大丈夫だったけれども、そこで食べた人たちは、みんなバタバタと倒れたんだよ。ジャングルの中で生っている実は、みな毒だよ。

 

ジャングルの水

ジャングルの中は水がないからね、そのうち水筒も空になって。でも歩かんといかんから、歩きながら太いつるを切ると、水が出てくるのがあるから、たくさん出そうなのを探して切って、水を飲むんだよ。

 

ジャングルを抜けたら大きな川の河口に出て、見たらそこにシジミ貝のような貝がたくさんいたんだよ。ジャングルの中でみんなずっと、なにも食べるものがなかったから、「みな、とまれー!」「貝がある、探せー!とれー!」と掛け声をかけてみんなで空の飯盒を下げて一生懸命採ってきて、飯盒で炊いて食べたんだよ。塩水で炊いて、ひさしぶりのご馳走だったんだよ。

 

自活生活

そのうち戦争に負けてアメリカの兵隊さんが来て、みな一か所に集められたんだよ。もう逃げるもんもおらんから、朝起きたらみんな歩いて出て、穴を掘って自分たちが食べるための芋を作って、夕方になるとまた柵の中に帰って寝とったよ。ジャングルの中の生活よりは、だいぶんよかったよ。

 

祖父の手記と照らし合わせてみると、初めの果物の話だけは、フィリピン島のバターン総攻撃のあと、第二機関銃中隊に転属となってカバナツァン市に駐留しているころかもしれないと思われる。そのほかの話は、その後送られたニューブリテン島で島の西端ツルブの戦場からラバウルまでの話で、祖父から聞いた当時(8歳から10歳か)は、のんきな祖父の口調から死の恐怖を感じ取ることは無かった。しかし、この体験の背景が分かる今は、その祖父が語る「うれしかったこと」は、その悲惨さに、かえって息をのむ思いである。

コメント   この記事についてブログを書く
« 8億7千万円の中古船 県の監... | トップ | 祖父と戦争② 祖父の戦歴 そ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

祖父と戦争」カテゴリの最新記事