かもて通信  ☆新上五島町中央山脈より発信☆ ☆個人的議会だより「かもて」のブログ版です☆

camoteはさつまいもという意味ですが、愛しい人を指すのにも使われていました。島の人々が愛する作物でもあります。

びっぐあーす1号に関する報告の再掲載2

2018-10-12 06:33:03 | 離島の税金の使い道

ほか、びっぐあーす1号関連の新上五島町議会での動きを自分の記事からですが、ひろってみます。

このあたりの、通信かもて記事の議会報告はカテゴリ「議会の所感」に掲載しています。

 

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平成22年第2回臨時会 2月17日

 

町所有高速船びっぐあーすの指定管理者に(株)五島産業汽船を指定
【出席議員18名 欠席2名】
びっぐあーすのためだけに召集されたような臨時会でした。主な内容は以下です。

【議案3】指定管理者の指定(町有船びっぐあーす運行の指定管理者に五島産業汽船を任命するもの)指定期間2020年まで。
反対1>歌野 / 賛成16
【意見1】永住外国人への地方参政権付与の法案化に反対する意見書
反対2>河内、歌野 / 賛成15

 指定管理者の指定に関しては、この時点ではもはや論点は「びっぐあーすの運行を任せる事業者として五島産業汽船が適当かどうか」というところでしたので、この場で反対するのは、同社に重大な瑕疵が無い限りは無意味であるとは私も分かっていました。反対のための反対という批判も甘んじて受けますが、これまでのいきさつを考えると「異議なし」とは、私には言えませんでした。

 

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平成22年第1回臨時会 2月10日

びっぐあーす購入契約の承認
公設民営化のための条例案可決

【出席議員19名 欠席1名】

【議案1】  びっぐあーす購入契約(随意契約、5億7300万円、相手方:五島産業汽船野口順治代表取締役)
反対3>本村・河内・歌野 / 賛成15
【議案2】  鯛ノ浦-長崎航路の公設民営化に関する条例制定(びっぐあーすの運行について指定管理者が行う業務の内容等を定める条例)指定管理期間は10年。
 議案2の内容に関しては、運営の原則を定める条例文のほか、参考資料として指定管理の実際やリスク分担を取り決める「鯛ノ浦・長崎港路高速船の管理運営に関する協定書」と、船の貸出し料(無料ですが)など船の貸付の実際を取り決める「裸傭船契約書」が配布されています。興味のある方は閲覧可能です。
 議論の焦点をいくつか紹介すると・・・

○船を買って指定監理させて、運行が困難になった場合はどうするのか。その責任は。
→産業汽船がこの航路そのものを手放さない限りはびっぐあーす返却には応じない。船が使える限りは指定管理を継続させる。

○なぜ最低運行義務期間、交流人口拡大など町への貢献に関する努力義務が示されていない
→運行に当たって町の手出しはしない。企業努力によって運行してもらう。町の単独経費は出さないが、観光振興などで国の政策による補助などは使って結構だ。

○購入金額の根拠
→エンジン乗せ換え後の2月2日付鑑定金額は7億6千万だが、国に補助申請をした5億7千万で購入した。エンジンに関しては1億9999万9800円。

議案はどちらも原案通り可決しました。

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平成21年第6回臨時会 11月27日

将来に負担と遺恨を残すふたつの問題 2億50万円の起債と「現給保障」の継続
人事院勧告を受けた期末手当の基準日(12月1日)にあわせて召集された臨時会ですが、メインは議案118号:ビッグアース購入費用の「予算化」と、議案134号の給与復元だったと思います。どちらも、もっと多くの町民の目がある中で行われるべき議論だと思いました。皆様に周知する時間も会期も短い臨時会で矢継ぎ早に議会を通過してしまった印象がぬぐえません。賛成も反対も、議員は議決に責任を持ちその理由を住民にきちんと説明する義務があります。せめて身近な議員に議論の中身を聞いていただけるよう採決の内訳を示しました。


【議案118】予算補正:一般会計補正予算9号:総額7億8586万5千円(増額)
主な内容
  ○ビッグアース購入による町債※※2億50万円追加(過疎債)
※※町債(=地方債):簡単に言うと地方公共団体が事業資金を調達するための借金で、地方債を起こすことを起債という。水道などの公共事業、災害復旧、学校や厚生施設、道路などの公共インフラにかかる多額の経費を、その恩恵を受ける将来の世代と分担していくための制度。
  ○ビッグアース購入にかかる国庫補助受け入れ(約3億7千万円)
  ○人事院勧告(期末手当減額など)による人件費増減
  ○早期退職者14名の退職金にかかる負担金(約2億1千万円増額)など
【(原案に)賛成13 反対5 欠席1で原案通り可決】
内訳:反対5>川口(正)、河内、坪井、本村、歌野
欠席1>中山              
     
以上の議案は全て原案通り可決しました。

ビッグアース購入に関して
財政面で、将来への負債額と返済計画も含めて一切のゆとりがないと言い切っても過言ではない中での起債…しかも財政計画にない突発事業。ならば誰もが納得し、将来につながる公共投資でなければならないのが当然です。ビッグアース購入がこれに当たるか。一か八かの「賭け」ならば当然自分の札を切らなければなりませんが、いったい誰が、その札を持つというのでしょうか。町長でもお持ちではないと、その責任を取れないと思うから、当然反対しました。結果は賛成多数の可決ですから何にもなりませんでしたが。

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びっぐあーす1号に関する報告の再掲載

2018-10-12 06:25:46 | 離島の税金の使い道

先日10月2日の突然の五島産業汽船の運休は、各所に衝撃を与えたのですが、1号のときから疑問を持って追いかけてきたせいか、五島産業汽船という会社の対応に関してはどことなくやっぱり感があります。

ちょうど住民の会の通信を作るのに、過去の問題点を振り返って整理していて、びっぐあーす1号のときに自分が書いた報告を発見したのでその部分だけ再掲載します。あのときは議員一年目で、自分と議会の無力さにいきなり心底ガッカリしたものでした。

以下、2009年11月27日の臨時議会の報告です。

ブログには11月28日掲載

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昨日11月27日の臨時会にはどうしてもそのまま容認すべきだと思えない案件があり、急遽思いついて、身近な方に傍聴の案内をお送りしました。
まずはじめに、前日のお知らせだったにもかかわらず議場に駆けつけてくださった方々のご意思と行動に、心からの敬意を表します。
住民皆様の前に賛否も問題点も明らかにしながら最終的に多数決で決まるのが議会です。皆様一人一人の意思と努力が議会をつくり、議会に力を与えるのだということを、ひしひしと感じています。同時に、現議会にその力がないという現実も。

五島産業汽船の大型高速船「びっぐあーす」公設民営の予算可決
この事業案は、五島産業汽船という一企業が所有するびっぐあーすという船を、国の補助6.5割、町負担3.5割(2億50万円)で買い上げ、それを同社に無償で貸与・運行させるものです。
運行経費は同社の負担、また島民に運賃割引をするという話ですが、一民間企業の不良資産を町が実質(それも2億の起債=借金をして)肩代わりし、現状民間ベースで黒字運行している路線を赤字経営(びっぐあーす300人乗りは燃料ベースだけでもえれがんと2号の1.2倍、稼働率は激減)にする危険が高い事業で、金額の多寡以上に、町財政面でも公平性の面でも、公金を運用する責任に触れる重要問題です。
議会では、見ていても非常にわかりにくいと思いますが、この件はほかの事業案といろいろ一緒になった補正予算として提出されました。ここで議決されなければ支障が出る予算もあるので、否決の方向ではなく「公設民営にかかる数字だけを減額した修正議案」を提出、その修正案への賛成を募ることでこの事業を予算段階で止めようという動きが出ました。「修正案への賛成者がこの事業への反対者」となりますが、
結果は13対5で原案通りの可決でした。
(順不同、敬称略)
賛成5名:本村、河内、川口正康、坪井、歌野
反対13名(原案に賛成):近藤守、法村、浜田、野中、大角、荒木、三村、増田、近藤浩二、中野、前田、大谷、江崎
欠席 1名:中山

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祖父と戦争③ 祖父の手記

2014-09-03 15:12:57 | 祖父と戦争

祖父は、

第14軍(のちニューギニア派遣時第18軍に編入、第8方面軍に入る)

第65旅団(夏部隊または奈良兵団とも)

歩兵第141連隊第二大隊第二機関銃中隊として、

1941年(S16)福山に応召、1942年(S17)から終戦を経て1946年(S21)まで南方方面、フィリピン、その後、ニューブリテン島(あるいはラバウルという地名の方が有名かも)に送られました。

以下は、その第65旅団夏部隊の戦友会が戦後40年の節目に編纂した記録集に収録された祖父の手記です。祖父は、フィリピン時代の思い出3本、ニューブリテン島時代で1本、兵士の歌集(読み人いろいろ)を寄稿していました。

 同じ記録集収録の他の方の手記などと併せて読むと、第六十五旅団は予備兵力のような形で召集・編成された年輩者の多い部隊で装備も劣り、戦闘を終えた地帯の治安警備という予定だったのが、上層部の作戦上の誤りで、フィリピン上陸後いきなり情勢も地形も不明のまま、米軍がマニラを捨てて立てこもった堅塁バターン半島攻撃の主力にされてしまい、多大な死者を出しながら戦闘に突入していった、不運な部隊だと書かれています。

それでもフィリピンの頃は戦局も悪くなく食べ物や宿舎もあったことが分かります。

 そのバターン戦のあと歩兵142,122部隊をフィリピン島に残して行き着いたラバウルから敗戦までは、記録集の帯に書かれた一文“弾薬、糧秣の補給なく、灼熱瘴癘の地、飢餓の極、遂に果てた亡き戦友”の言葉そのままに、想像を絶する情景が語られます。

 それらはとても、ひとまとめに出来るような話ではなく、そのままテキストにして、より多くの皆さまの眼に触れる形にしたいと思います。まずは、公表して差し支えのなさそうな祖父のものからはじめます。今の感覚だとちょっと疑問に感じる表現や、個人名も出てきますが、原文そのままをうつしました。もしご遺族の方などがいらっしゃって差し障りある時にはご一報ください。

 

<バターン―カバナツァン>

二機 大塚義明

 

昭和十七年三月十五日、雪のちらつく寒い日に宇品を出港して名瀬港、台南港と、敵の潜水艦をさけてリンガエン湾に上陸し、バターン第二次総攻撃にやっと間に合った。

 赤木大尉の指揮下にはいり、バターン包囲網の最右翼を受け持った。

 総攻撃の前日比島の兵一名投稿し来る。取り調べると上官の命令にて投降したとのことで、日本軍の様子を見て安全であれば、部隊全員が投降するという。この比島兵の誘導により比島軍の少佐が兵、二十数名連れて投降してきたので身体検査の上、本部へ連行した。前夜命令により各人五発ずつの威嚇射撃を、谷の向うにむけて発砲した。包囲人の突破を企てたが駄目と見て、観念して投降して来たらしい。

 四月三日総攻撃。山の中の敵を追って追撃戦にうつり、糧食尽きたころ敵の降伏を知り、海岸道へでる。アメリカ軍の捕虜が二百名ほど、整然と行進してくる。日本の兵隊が一人飛び出して行進中の捕虜と流暢な英語で話しをしている。日本へ帰省中開戦となり、福山補充隊へ招集されたアメリカ生まれの二世、池田増男である。親、兄弟はアメリカに住んでいると話していた。第二機関銃中隊へ転属となり、ツルブの戦では大隊砲小隊に属し、タバコの好きな男であった。戦死したと思っていたら、復員して瀬尾中隊長の添書きをもらってアメリカへ帰って行ったと後日瀬尾さんより聞いた。

 第二機関銃中隊へ転属と同時に、中隊を離れて馬を連れて、雨期の始まった道をカバナツァンへの行軍が続いた。夜一本の樹に螢が何万と群れていたのが印象に残っている。

 

              螢火は、戦野の暗にあやしくも

                            一樹に群れて打ちゆらめけり

 

 市民の歓迎を受けてカバナツァン市へはいり、女学校の寄宿舎に馬をつなぎ宿舎とした。五年間の軍隊生活中、此の時期が一番自由な自分の時間を持つことが出来た。果物入りのアイスクリームを毎日土民が売りに来るが、金がないので乾パンと交換して食べていた。支那大陸歴戦の召集兵がいて、バターンの戦場より車輛に色々の品を積んで持ってきているのには驚いた。

 アギリモという少年がよく宿舎に遊びに来て友達となり、英会話の稽古代になってもらっていた。市内には現地人の慰安所も出来ており、その前をアギリモ少年と二人で通っていて悪い女だから入ってはいけないと、少年にたしなめられた。映画も上映していて、或る日少年と二人で映画を見に行ったら、人が石に化ける忍術映画を上映していた。

 アギリモ少年の頼みで軍の酒保で缶入のM・J・Bのコーヒーを買う便宜を図ってやったりもした。一日少年の家に招かれて食べた、冷えたマンゴーの味は今も忘れられない。

 宿舎の裏手を出て百メートル程行くと人家があり、北村、中野等と馬の草を取りに出掛けて、これらの人家に立ち寄ることもあった。そんな一軒にスペインとタガログとの混血で農園を持っているゴンザレス、ヒメニス家があった。五十歳前後の気のいい親父さんがいて、よく立ち寄っていた。或る日立ち寄ると、長男が青い顔をして寝ていて、聞いてみるとマラリアに罹り薬がないので良くならないと言っていた。兵隊の中に毎日飲むことになっているマラリア薬を飲まない者がいて瓶に残っていたのを、次の時持って行って与えたところ、マラリアがよくなり、それ以来馬の草等先方より持ってきてくれる様になり、大変助かった。

 鉄道が開通してカバナツァン市を去る時、沢山の果物を届けてくれた。

 昭和五十三年比島へ渡った時、カバナツァン市を訪れてゴンザレス家を探しあてた。親父さんはとっくに亡くなっていて、昔の農園は人手に渡り、長男はバギオに住んでいるとかで、弟が郵便局に勤めていて運よく家にいて会うことが出来た。子供夫婦と同居しており、韓国人と結婚しているという妹の方も、二人の若者を連れて集まってきて、にぎやかな再開となった。みやげ品のボールペン等なくなり、計算機も与えて家を辞した。

 

              まろやかに白く咲きたるサンパギータ

                            此の国の花首にかけらる

 

 

<ブスアンガ島討伐隊>

              二機 大塚義明

 

 ケソン市より中隊のいるマニラ北地区防衛隊に帰り、極東大学に駐留中の昭和十七年八月、マニラ南方三百キロのブスアンガ島に敵のゲリラ部隊が上陸して、マンガンと銅の出る鉱山を破壊し、日本人の鉱山技師が殺された。討伐隊が派遣されることになり、第五中隊が主力(中隊長山口政雄中尉)となり、第二機関銃中隊より一個小隊が配属された。

 小隊長安井藤吉注意、小松曹長、増田軍曹、山根軍曹(現川添氏)、北村長二、小川勝美、川北数義、田中米蔵、横山利恵、田井光隆、大溝豊己、岡、大塚等が第二機関銃中隊より参加す。伊藤篤軍医、憲兵隊、通訳の編成でマニラ港より出港した。

 ブスアンガ島唯一の港町コロンへ到着し、上陸準備のため機銃を港に向け街を見ると、一般住民が右往左往しており、接岸のため船が近づくにつれて町の様子が手に取る様に見えてきた。住民は家財道具を持ち出して、どんどん町を逃げ出している。日本軍を恐れて、町を逃げ出すつもりらしい。いよいよ上陸して見ると人一人いない無人の町と化して主人を失った豚や鶏が家の廻りをちょこちょこと走っている。家の中に入って見ると、どの家もあわてふためいて家を空けた跡が歴然としている。どうもゲリラの宣伝で、住民は全部山の中へ逃げ込んだらしい。

 小学校を宿舎にすることになり、大きい一棟を討伐隊本部が使用、機関銃小隊は別棟の小さい校舎を使用することになった。

 地図を見るとブスアンガ島はルパング島の、五倍位の広さがあり、カラミヤン群島中最も大きな島で、その南にパラワン島が弓状に連り、ボルネオ島へと続いている。東はスル海、北は南支那海に包まれている。

 鉱山はコロンの町とは反対側の南支那海側にある。密偵を出して鉱山の様子をさぐる。鉱山は破壊されたままで無人となっているらしい。鉱山へ行くことになり、山口中尉が先頭のトラックに乗り、五中隊主力と機関銃小隊も同行する。

 鉱山はゲリラが事務所、坑道等破壊して無人となっており、日本人の鉱山技師は行方不明になっていた。後日密偵が目撃者を探しだしてこの住民を連れて、死体の収容に行った。埋葬場を探しあて遺体を収容したが、既に白骨化していた。金歯が決め手となり、身元を確認することが出来、遺骨を収容した。

 この時鉱山で使用していた小型発電機を見つけ、持ち帰って発電し、毎晩二時間だけローソクのかわりに電気がつくようになった。

 山へ逃げ込んだ住民も、宣撫工作がきいてぼつぼつ町へ帰ってくる様になり、帰った住民には魚運搬船(近くでとれた魚をマニラへ送っていた)より入手した魚等を分配することになった。

 いつの間に来る様になったのか、土民の若者二人が機関銃小隊の炊事洗濯を手伝うようになり、毎日来ては夕方帰って行く。太郎、次郎と名付けて兵隊に重宝がられている。

 〇月〇日、ゲリラが橋を破壊しているとの情報が入り、非常呼集の上、急ぎ出動することになった。トラックの急発進で、二、三人トラックの荷物台より落ちた様子だが、そのまま出動し、現場に到着してみると既に橋は壊されていてゲリラは逃げた後であった。逃げ込んだとみられる密林へ機関銃を打ち込み、擲弾筒を二、三発発射すると、びっくりした大こうもりが二、三十羽ふわりふわりと空中へ舞い上がっていた。

 フィリピンのゲリラに二つの組織があり、一つは「ユサッフェ」でありマッカーサー軍に属し情報を提供して日本軍に対してはゲリラ活動をし、日本軍を消耗させていた。マッカーサーが帰った暁には過去にさかのぼって給料が支払われる約束になっていた。もう一つは「フクハラハップ」で社会党、共産党系の農民運動より発生して比島の完全独立と農民の生活を守ることを主としていて、ガバナツァン市付近を中心として活動している。ブスアンガ島のゲリラは前者「ユサッフェ」であり、日本軍の消耗を目的としているので、密林にもぐったゲリラをとらえるのはなかなか難しい。討伐隊の情報も、ゲリラへつつ抜けらしい。

 〇月〇日、山口隊長が密偵で通訳のカタナワンを叱っている。こちらの情報が多少漏れるのは仕方ないが、ゲリラに関する的確な情報が少ないと言って怒っているらしい。

 前の日に破壊された橋を修繕に行くことになり、出動す。何か別の目的もあるらしいが兵隊の我々にはわからない。橋を修繕すると見せかけて潜伏兵を置いて帰るつもりらしい。大勢で橋を修繕しているうちに橋の近くにある小屋へ出たり入ったりして、一人、二人と居残って、都合五、六人が軽機一丁を持って部隊が引き上げた後居残り、二、三日潜伏して出てくるゲリラを攻撃するつもりらしい。部隊が引き上げ後ゲリラを攻撃した話を聞かなかったところから、失敗に終わったらしかった。

 〇月〇日、山の中にゲリラの潜伏する部落があるとの情報で出動したが、すでに我々の動静が察知され、ゲリラは逸早く逃走した後で、蛻けの殻であった。命令で家に火を放って焼き払う。ニッパ椰子でふいた家は見る間に焼け落ちてしまった。

 〇月〇日、四、五日出動のない休養の日が続いている。川北等が先頭になり海岸へ出て魚を取ることになった。土民が、魚を追い込む仕掛けを竹で作って、海岸より沖に向けて設けてある。バンガーを漕いで沖に出て、掛っている鮫の子を捕らえて尾鰭に細い鋼をつけて海に放ち、遊ばしている。用事がなければ兵隊とはたわいのないものである。

 映画館でフィルムを見つけ映画を上映すると言うので行って見たら、洋画のフィルムを窓のガラスに透かして廻し見をしている。フィルムを次々と引っ張り出して四、五回廻し見をして終わってみたら、部屋中引っ張り廻したフィルムで一杯になり、足の踏み場もない始末である。

 〇月〇日、捕らえたゲリラの容疑者を取調べているらしく、憲兵隊の宿舎より人の悲鳴が聞こえてくる。ゲリラを斬るから来る様にとの山口隊長より使いの物がくるが、安井中尉は何かと理由をもうけて一度も行かなかった。剣道の有段者と聞いていたが、人を斬るのをこの討伐隊中、一度も見た事がなかった。

 〇月〇日、ゲリラが山の中にいるとの情報で出発する。現地へ到着したが逃げた後である。空き家があり、二階の物置に隠れている男を見つけた。足を怪我している。ゲリラの一味らしい。連行することにして、前後に兵隊がついて歩いて行く。怪我をしていたので油断していたらしく、ジャングルへ飛び込んで逃げた。警察官であった増田軍曹が、素早く拳銃をかまえてジャングルの中を追ったが、見失ってしまった。

 島の原住民は産まれた時より裸足、裸で背が低く、ルソン島で接してきたタガログ族とは人種も異なり、土語しか通じない。

 〇月〇日、ゲリラの幹部が今夜一人で情婦の家に泊まりにくるとの密偵よりの情報を得て、安井中尉が長となり、捕らえに行くことになった。色々と注意があり、昼間出発するとゲリラに情報が漏れるので、日が暮れてから出発する。

 案内の密偵を先頭に、暗闇の中を歩いて真夜中目的地に着いた。椰子で葺いた高床式の情婦の家を一同で包囲し、同志打ちをさける為め発砲は禁じられた。着剣をして待つことにした。安井中尉と北村が家の梯子をのぼり、入口の扉を開けて家の中に入り、懐中電灯を照らす光が見えた。何か人の声がした様に感じた時、入口と反対側の椰子の窓が破られ人影が飛び降り、さっと風を切って包囲陣の隙間をついて暗闇の中に消え去った。一瞬の出来事であった。なんと逃げ足の早い野郎だと思ったが、後の祭りであった。

 丸一日かけた捕り物も空しく夜道を歩いて宿舎に帰ってきた。

 〇月〇日、五中隊の方で銃声がした。びっくりして飛び出して見ると校庭に大きな鳥が翼のつけ根を撃たれてばたばたしている。射撃した五中隊の兵隊が出てきて、棍棒を持って鳥と格闘している。野猿を狙う鷲がいると聞いていたが、目の前にいる翼を広げれば人間が両手を広げた位ある鷲を見て、びっくりした。兵隊が持ち帰って校庭の木に登らせていた猿を狙っていたらしい。

 〇月〇日、宿営地より島の南の方へゲリラが移動しているとの情報で、コロンの港より船で討伐に行くことになった。第二機関銃中隊よりは主として山根分隊が参加している。先頭の船の両側より釣り糸が二本引っ張られている。魚がかかると船を停めて糸を引き上げると、大きな鰹が釣れている。

 目的地に上陸して密林を歩いて行くうちに、先頭と後尾が次第に離れて行った。最後尾を歩いていた岡の、悲鳴に似た声が聞こえた。山根分隊長が引き返して見ると密林に隠れていたゲリラに切りつけられゲリラと組み打ちしている。肩口をバッサリ切られ、傷口より流れ出る血に染まっている。伊藤軍医の処置で一命はとりとめることが出来た。首が飛んでいたら、先頭は知らずに進んでいたことだろう。

 

 

<クリオン島討伐行>

              二機 大塚義明

 

 ここしばらくゲリラの情報もなく、島が静かになったと思っていたら、度重なる討伐で危険を感じて、ゲリラは他の島へ移動したという。ブスアンガ島を含むカラミヤン諸島は瀬戸内海の如く無数の島が連なっており、海は青く澄んで、どの島にも柑橘類、その他の果物も豊富で、野猿が沢山住んでいる。南は弓状のパラワン島、ボルネオ島へと続いている。

 討伐隊はゲリラを撃滅する任務がある。コロンの港より船で出港し、討伐を続行することになった。

 〇月〇日、ゲリラは島づたいにクリオン島へ逃げ込んだとの情報が入り、討伐隊はコロン港を出航して青く澄んだ奇麗な海を航行している。先頭の船の人が投げ込まれ、波に消えた。その波のあたりに小銃弾の水しぶきがあがるのが見え、後は何事もなかった様に元の青い海にかえった。捕らえたゲリラを処刑したらしい。

 〇月〇日、クリオン島の岸辺で一人の男が船で漁をしている。声をかけ、こちらを向いた顔を見て一同びっくりした。顔の形がくずれ、鼻がない。睫毛もない。目玉が二つぎょろぎょろしている。怪け物である。ゲリラの逃げ込んだクリオン島はハンセン氏病の患者ばかりが住む島で住民は自由に漁をしたり、畑を耕して生活をしている。ハンセン氏病の患者を収容する島であることがわかった。

 木で出来た桟橋があり、船をつけて上陸する。桟橋の下は海底まで澄んでいて小さい無数の熱帯魚が泳いでいる。

 事務室らしい建物に入り、通訳が話をしている。戦前のライ専門の日本の名医が訪れたことがあると、その時の話などして事務室の者は我々に協力的である。

 住民の名簿(ハンセン氏病の患者)があり、日本人が二名居住している。日本軍が来たので出てくる様にと呼び出したが、二人共島を去る最後まで現れなかった。我々としては如何なる経緯をたどりこの島へ来たのか知りたかったが、同胞にくずれた顔を見られたくなかったのか、又別の理由があったのかも知れない。

 逃げ込んだゲリラを探し出すのが我らの任務である。事務室の者と患者との協力で、ゲリラは隣の島へバンカーで逃げて行ったことが判った。ゲリラに覚られぬ様に、日が暮れてからバンカーを漕いで隣の島へ渡ることにして、それまで休憩となる。

 ゲリラの逃げ込んだ島はクリオン島よりもずっと小さく、島の廻りはマングローブが一面に繁茂している無人島らしい。日が暮れてから予め調べて置いた水路をバンカーを漕いで隣の島へ渡った。昼間近くに見えた島が、バンカーを漕いでみると中々島へ到着出来ない。明け方やっと島へ到着して、舟より降りてマングローブの茂る浅瀬をバンカーを引っ張って上陸地点を探すが、なかなか見つからない。やっとマングローブの切れ目を見つけてバンカーをマングローブの根元に隠して上陸した頃は、夜が明けていた。

 バンカーの見張役を命ぜられ、小生一人だけ残る。討伐隊はマングローブを密林との間の下草の上を歩いて、視界より消えていった。

 マングローブの根元より少し上がったところで、木ノ根に腰を降ろして、銃を膝にのせて座っていたが、昨夜来の疲れでうとうとと眠っていたらしい。ふと目を覚ますと七、八十米くらい先をこちらへ向いて一人のゲリラが歩いてくる。「ゲリラだ」一瞬引き金に手をかけ、膝撃で発砲した。銃声が谺して熱帯中の葉がゆれ、ゲリラが密林へ逃げ込むのが見えた。こちらも一人である。あわてて密林に飛び込んで身を隠した。

 バンカーの見張り役を考えて、マングローブの見える場所を探して移動し、以後は物音をたてず静かに様子をうかがうことにした。ゲリラは密林に隠れていて討伐隊を遣り過ごして、討伐隊とは反対の方向へ歩いて来たらしい。

 発砲してから密林に隠れてもう四、五時間は経っている。その後何事もなく待つ程に、ゲリラ隊がゲリラを捕らえられず帰って来た。ゲリラの替わりに一人の兵隊が小猿を捕らえていた。ブスアンガ島の討伐戦で私が発砲したのはこの時だけ、唯一回である。

 〇月〇日、急にマニラへ帰ることになり。安井小隊も帰る準備に忙しい。残飯で飼っていた子豚も大きくなり。にわとりと共に太郎と次郎にやることにした。一銭の給料もなしで炊事、風呂焚きとよく兵隊の手助けをしてくれた。ゲリラに通じているのではないかという疑問を持ったこともある。

 太郎は豚を捕らえるのに一生懸命である。豚の悲鳴が聞こえている。迎えの船に乗船。再び訪ねる事はないであろうブスアンガ島を後にした。

 この討伐戦に参加した機関銃小隊長安井中尉(万寿山)、小松曹長(ツルブ)、増田軍曹(ウンボイ島)、皆ニューブリテン島にて戦死。下士官の中で唯一人、山根軍曹(現川添氏)が生きて内地の土を踏んだ。北村長二、石田治義、小川勝美の諸氏とは第二機関銃中隊の戦友会でお目にかかる仲である。

 

 

<第二大隊経理室勤務>

              二機 大塚義明

 

 昭和十七年十一月二十七日、夏部隊はラバウル(注:原文ママ、多分マニラの間違い)港より巡洋艦「熊野」や駆逐艦に乗り、十二月三日ラバウルに上陸、ラクネに駐留した。比島で各方面に別れて勤務していた第二機関銃中隊の大隊砲小隊第二分隊の面々(北村・二宮・原田・川口・岡田・大伴・小松・小林・大塚)も久し振りに集まり、歴戦の勇者仙頭分隊長のもとによく団結して、次の作戦に忙しかった。

 この時、私は第二大隊本部経理室勤務を命ぜられ中隊を離れることになった。当時の二大隊経理室は、井口二三男主計見習士官を長として、主計下士官駄賀曹長の下に各中隊より二名宛集まっていた。共に勤務していた鷹尾・植杉・土居・田村・山田等の諸氏の名前が今も忘れられない。物資もそろそろ不足する品があり、酒・タバコ・甘味品等は配給制になっていたので、配給の度に各隊より給需伝票を出してもらい、集計して配給数量を決めていた。小さい野鼠が沢山いて、ある日倉庫を整理していたら、大切に保管していた小豆二、三俵が鼠に食われて皮ばかりになっていた。

 井口主計の命令で経理室の前に少しばかり畑を開いて甘藷の試作をしていた。誰も本気で芋を作る気分になっていなかったのと、芋作りは素人ばかりで、収穫は少なく失敗していた。この時本気で甘藷作りを習っておけば「カ号作戦」後の食糧不足の折、大変役に立っていたのにと後で残念がった次第である。

 夏部隊が西部ニューブリテン島方面へ出動することになり、二大隊の先発として経理からも二名、田村と私が先行することになった。二大隊の先発隊とともに七月ラバウル港より駆逐艦に乗船し、夜間ガロベ島沖へ直航、下船した。駆逐艦は敵の航空機をさけるためすぐに出港帰っていった。

 第二便にて井口主計と山田がガロベ島へ到着二、三日して先行の命を受けた本部の人員と一緒に鰹釣り漁船二隻に分乗してツルブを目ざして出航したが、夜間敵航空機飛来し、多数の照明弾を海上に投下して旋回するので、船の進路を変えてジグザグ航行をしているうちに夜が明けた。敵機を警戒して近くのウネア島に急ぎ上陸、漁船を偽装して休憩。朝食準備中空襲の声とともに敵機、ノースアメリカン三機飛来旋回の上、椰子の葉のゆれるほどの低空にて銃爆撃を繰り返し、船は二隻とも擱座炎上、二大隊本部の兵隊藤井進一負傷、後送したが死亡した。敵機により受けた最初の銃爆撃であったが、前途容易ならぬことを悟らされた。

 二、三日後に海軍の舟艇に助けられカライアイ付近に上陸した。軍参謀の指示により先遣隊は歩いてアイシガまで行軍をすることになった。経理の井口主計・山田・田村と私は敵機をさけて乾期の川を渉り、密林を歩く毎日が続いた。ツルブの飛行場迄後一日の行程の草原に出て不時着の飛行機を見つけ、近寄って見るとゼロ式戦闘機である。乗員はいない。ツルブの飛行場は未完成で樹木の伐採が盛んに行われている。敵機を警戒してナタモ、キリゲの海岸をさけて山の中を進みアイシガに到着した。二大隊本部の位置は海岸より大分奥に入った密林の中と決まり、幕舎を建てる作業が何日も続いて、出来上がった頃大隊本部も到着した。経理の後発組の駄賀曹長以下鷹尾・植杉・土居も来て、経理の仕事も忙しくなる。夜間大発が着くというので、ジャングルを歩いて海岸へ出て糧秣の到着を待つが舟の着かない日が多くなる。大発の乗組員も必死の輸送である。敵の魚雷艇と遭遇戦を演じることもあるらしい。

 被服類がアイシガの宿営地より一日行程の所に陸揚げしてあるとのことで、受領のため兵十名余りと共に出発、海岸を歩いているとき、爆音がしたと思ったら敵のグラマン戦闘機が前方の突出した岩角を回るのが見えた。「動くな」と言ったのに、誰か一人密林の方へとことこと走る兵隊がいた。引き返してきたグラマン戦闘機は低空を二、三回旋回しながら機銃掃射を浴びせてきた。肝を冷やしたが、哨戒しての帰りであり、敵機も弾丸がなくなったのか、飛び去って一同無事であった。被服を受け取り野営をしたが、ブトの大群の襲撃を受けて一晩中眠られなかった。口・目・鼻・手・足、どこからでも侵入してくるひどいものであった。

 この頃弾薬・糧秣の補給は大発による輸送に頼っていたが、昼は敵のグラマン・ロッキード戦闘機の哨戒、夜は敵の魚雷艇に狙われて、思うようにはアイシガへ届かなかった。各隊へ支給する糧秣がなく、経理としても現地物資に頼ることが多くなっていたが、人の住んでいない土地での物資の調達には限りがあり、底をついた感じであった。各隊は分隊毎に夫々に兵隊を出して、タピオカ・タロ芋等を集めて食いつなぐ日々であった。

 野菜の代替品を探して草原に出ると、兎がいるというのでその方角を見ると、ぴょんぴょんと跳んで逃げていく五、六匹の動物がいる。小型のカンガールである。追うと草の中を逃げて見失った。火喰鳥がいるので罠をかけたが、かからなかった。(発砲は禁じられていた)ツルブへ敵が上陸したので、大隊本部が出発した後、大隊砲小隊仙頭分隊の北村が、大きい火喰鳥を撃って食べたと、後日彼から聞いた。

 チェコスロバキヤ製の機関銃が一丁、二大隊経理室へ支給された。機関銃の教育を受けた者は田村しかいないので彼の受持ちとなる。

 一度試射をやりたいとのことであったが、大隊命令で禁止されているので空射で我慢したようだ。本番に使えればよいがと思う。

 マーカス岬に次いでツルブ・アイシガ地区へ敵上陸の日がせまっている様子である。昼は敵機の爆撃があり、夜は毎夜海岸へ敵の魚雷艇がやって来て、沖でエンジンを止めて陸地を偵察しては夜明け前帰っていく。大発は来ないので糧秣の届かない日が続いている。ニューギニア戦線ではラエ・サラモア・フィンシハーフエンもすでに敵の手に落ちたらしい。

 十二月二十五日、クリスマスなのでまさかと思っていたが、監視哨より敵の艦船多数がツルブ沖に向かって進んでいるとの報告、いよいよ敵の上陸だ。連隊命令で二大隊はツルブへ急行することになる。経理も本部とともに緊急移動のため忙しくなる。ラバウル出発の時先発した田村と私は、今度は井口主計の命令で残留して糧秣の整理に当たることになった。残留者は伊藤軍医の指揮下に入る。井口主計以下経理の一同は二大隊本部と共に敵上陸地点ツルブへ向け出発していった。

 十二月下旬アイシガ残留者一同もツルブへ追及することになる。輸送されてくる数少ない糧秣の中から少しだけ割いて敵上陸時の非常用として壕の中に貯えていた。田村と二人で壕の入り口をふさいで外から壕がわからないように隠して出発地点へ集合する。

 伊藤軍医が指揮して、残留者二十数名本部へ追及のため出発。先に部隊が歩いた道をたどる。途中密林を歩いて行くと兵隊が一人行き倒れていた。伊藤軍医が診察したがもう駄目な様子である。何部隊の何隊の誰かと聞いて伊藤軍医が手帳に控えていた。

 一月元日、元日であることを忘れていたが、田村が背負い袋から餅を取出し炊事の火で焼いて、「明日から戦闘だ」これが食べ納めになるかも知れぬと一同一つまみづつ食べた。

 ツルブの戦場に着き、田村と二人で井口主計を探すが、所在がわからない。そうこうするうち経理も忙しいので、連隊本部の主計の指揮下に入れられてしまった。井口主計はこの時戦闘部隊と共に、鷹尾と山田を連れて青桐台の戦場にいた。鷹尾が連絡に帰って初めてわかった。青桐台・三角山の攻撃も失敗に終わり、二大隊は大きな損害を出していた。後日第二機関銃中隊の中隊長になった瀬尾中尉(当時臨時、速射砲中隊長)が負傷してさがって来ていた。「速射砲が破壊されて使えなくなったので、処置をしてさがって来ました」と分隊長より報告を受けていた。

 〇月〇日補給する糧秣も底をつき、芋集めがはじまっていた。万寿山へ糧秣を強行輸送することになり、二大隊経理の私が行くことになった。兵隊十五、六名に糧秣を背負ってもらい、海岸と反対側の道のない急斜面を登り糧秣を手渡した。出発の折、托されたタバコを持って安井中隊長のいる壕へ行った。もう暗くなりかけていた。「食料を持って来ました」とタバコを渡すと、「ご苦労さん、有難う」「もう暗いから明日帰ったらどうか」と言われたが、「糧秣を渡したらすぐ引返すようにとの命令ですので、すぐ引返します」と言うと、「気をつけて帰れ」と言われた。これが安井隊長と話しをした最後であった。翌日敵の襲撃があり、安井中隊長以下第二機関銃隊の幹部・兵の多数がこの万寿山で戦死した。

 昭和五十八年九月十七日、夏友会のニューブリテン島戦跡訪問及び慰霊の旅に参加して、船をナタモの沖に停め、ボートで砂浜に上陸、当時軍医であった伊藤さん・通信隊の三原さん・二機の真鍋・八島さんを私と五人で砂浜を歩き、米軍の戦車がつけたらしい坂道をたどり、途中から切り立った道のない急斜面を登り、万寿山の頂上に立った。樹木がまばらで雑草の生えた所があり、海岸方面に掘られた壕が今も残っている。山砲が一門海岸に向けたまま横倒しになっている。壕の後方に朽ちた木の墓標らしきものが二本立ち、側に自然石で出来た小さい墓が草にうずもれている。壕は海岸方面へ稜線上に続いているが、一面のジャングルに覆われて足の踏み入れようもない。壕をたどって行けば安井隊長のいた壕へ行ける筈であるが、時間がなくて行けなかった。お墓に水筒の水をたむけて、八島さんに般若心経を唱えてもらい、一同ひざまづいてここで亡くなった戦友の冥福を心から祈った。安井中隊長・夏田班長・村上班長・森本・原田と万寿山で戦死した戦友の顔々が次々浮かんで来た。一同で「皆さんのご冥福を祈るため、はるばる祖国日本からやって参りました。敗戦後の日本も立派に復興して立ち直りました。安心して眠って下さい」と念じてもう一度深々と頭を下げた。奇麗なナタモの砂浜が眼下に見え、タラウエ山は遠くに噴煙をあげている。四十年前ここで米軍と死闘を演じたとは考えられない静かな風景である。キリゲ・ナタモに住む現地人の中で当時の戦闘の模様など知る人は、今はもう一人もいない。

 万寿山の戦の後、第二機関銃中隊の将校・下士官は殆ど戦死傷して、岡軍曹が生き残り兵二十名程を率いている時、偶然出合ったことがある。アイシガに残した糧秣を現地人を雇って取りに行くことを考えていた。若しアイシガへ行っていたら「カ」号作戦に間に合わなかっただろう。

 経理の金櫃は兵器と同じである。ゴム袋にはポンド紙幣と軍票がぎっしり詰まっている。この状況では紙屑にも等しいものだが、転進に当たりこのゴム袋を背負って行くことになる。川向こうに潜水艦より揚げた糧秣があり先行して受領することになった。出発のとき主計さんに頼みタバコを持って出発した。雨期の雨で川は氾濫して向こう岸へ渡れない。「部隊の糧秣受領に先行している」と説明しても部隊以外個人は渡してくれない。船舶工兵隊の兵隊にタバコを渡して川を越え、糧秣受領の任務を果たしたことがある。

 中隊主力が兵力不足となり、本部勤務者は原隊へ帰ることになり、転進途中第二機関銃中隊へ復帰した。負傷していた高橋准尉が中隊へ帰り、中隊長代理として指揮をとっていた。急流の河があり河口へ出て浅い場所を探して渡っていて、途中装具と共に流され、高橋准尉に引きあげてもらって命拾いしたことがある。多数の屍体があって屍臭を嗅いで一日中気分が悪かった。

 ある日の午後、山の中で休憩中、谷川のほとりで手榴弾の爆発音を聞き驚いた。かけよって見ると中隊の兵隊が自爆、肉片が灌木の枝にひっかかっている。これ以上皆について行けないと悟り、覚悟の上の自爆であった。折角ここまで皆と一緒に来たのに誠に残念なことであった。

 河巾の広い大きな河の手前で野営をすることになる。河を渡れずに落伍した兵隊が屯していた。翌日出発の時この落伍兵に装具一切と弁当を詰めた飯盒を盗まれた兵隊がいた。

 トリウへ、後四、五日と近づいたころ、毎日馬が倒れて死んでおり、三日間程その場肉ばかり食べたが、糞づまりになって大変に困ったことがあった。トリウで休養中、しじみ貝によく似た貝が沢山取れたので、蛋白質不足の折とて毎日貝を取って食べていた。河のこちら側を取り尽くして、河向こうで貝を取ることになり、川を泳いで渡り向こう岸で貝を取り、泳いで持ち帰る途中、体力が消耗のせいか、貝の重みで溺れかかり、助け上げられたこともあった。三か月に及ぶ「カ」号作戦は終わった。

 ニューブリテン島の作戦は、将兵だけが前線へ進み、兵器・弾薬そして糧秣の補給のない、思えば無謀な戦いであった。第二機関銃中隊の戦友多数が密林に消えていった。第二大隊経理で助け合った仲間の土居(旧制高松中学の英語教諭)も遂に帰らなかった。

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祖父と戦争② 祖父の戦歴 その足取り

2014-09-03 14:24:12 | 祖父と戦争

<祖父の戦歴と足取り>

 

軍隊というものに一切興味はないけれど、あえて、できる限り詳細に書きとめたい。

なぜならば、先の大戦…特に大量の死傷者を出した戦場では、兵隊の消息というものが、特に戦地で死んでしまった場合、その部隊や司令をたどり、生還者の話から当時の状況を推し量る以外に知りようがないからだ。

戦友会が編纂した「夏部隊の記録」を見ると、遠い異国で土と化した戦友たちを想い、遺族の方々を慮り、「一つでも多く、一人でも多く、書き残しておかなければ!」いう気迫が全編の行間から立ちのぼるかのようだ。

祖父を含めた生還者たちの念を受け、祖父が想像もしなかったこのインターネット社会で、もしも南方の戦場で家族を亡くされその最後を知りたいと考えた方につながれば、祖父等も喜んでくれるのではないかと思う。南方ニューギニア戦線に派遣された係累を持つ方と知り合う機会があったら、このような部隊記録があることを伝えて欲しい。

 

以下、祖父が自分で書き遺した軍歴と、「夏部隊の記録」に書かれた手記、同記録の部隊の記録、同じ部隊の戦友の手記などから拾った、祖父の足取りを記す。

 

(応召一回目)満州派遣

 

1937年(S12)            11月 丸亀歩兵第12連隊に補充兵として召集さる(当時23歳)

1938年(S13)            10月5日 満州派遣 坂出港出港

                                          11月6日 東安省密陣地守備の命下る

                                          12月2日 同陣地到着 国境の守備につく(召集解除まで)

1940年(S15)            5月15日 内地帰還のため出発 宇品港着(当時26歳)

 

(応召二回目)南方方面

 

1941年(S16)            11月 福山歩兵141連隊に応召す(当時27歳)

                                  ※所属:第65旅団 歩兵141連隊第二大隊第二機関銃中隊

1942年(S17)            3月 宇品港出港 フィリピン派遣

                                            名瀬、台湾経由でフィリピン島リンガエン湾上陸

                                       4月3日 バターン第二次総攻撃

   ※この時、第二機関銃中隊に転属

  カバナツァンへ行軍

  8月 マニラ北地区防衛隊にケソン市より戻る

  極東大学駐留

  ブスアンガ島・クリオン島討伐隊に参加(小隊長安井藤吉)

  11月27日 マニラ港出発(巡洋艦「熊野」ほかに分乗)

  12月3日 ニューブリテン島ラバウルに上陸

                           ラクネ駐留

※第二大隊本部経理室へ転属(長:井口二三男集計見習士官)

1943年(S18)       7月 先発隊とともにラバウル港よりガロベ島へ。

                                            ツルブを目指すが行けず、ウネア島上陸

                                            海軍に救出されカライアイ付近に上陸

                                            アイシガ宿営地まで歩いて移動

                                        12月中旬 ツルブ戦場へ

1944年(S19)       1月1日 ツルブ戦場到着

                                  ※一時、連隊本部主計の指揮下に入る

                                          万寿山に強行輸送 糧秣底つく

                                          輸送翌日、安井中隊長以下第二機関銃中隊の多数万寿山で戦死

                                         1月23日 退却戦となる

                                          転進途中、第二機関銃中隊に復帰(高橋准尉中隊長代理)

                                          「カ号作戦」でジャングルの中をラバウルに向け死の行軍

                                           密林の中雨期と重なり食物も無く死者多数

                                          4月 トリウで休養(貝獲りはこの時)「カ号作戦」終了

                                          4月15日 トーマ到着 自活体制に入る

1945年(S20)        8月15日 終戦

1946年(S21)         ラバウルを出港

                                          5月5日 名古屋港上陸

                                          大阪の家は空襲にて跡形も無し。観音寺(生家)へ向かふ

                                          5月7日 観音寺の家に帰る

 

 

※141連隊が所属した第65旅団(夏部隊)の概要

 

第65旅団 非匿名「夏部隊」 兵団長 奈良 晃(よって「奈良兵団」とも呼ぶ)

 

内訳:歩兵122連隊(松山)、歩兵141連隊(福山)、歩兵142連隊(松山)、司令部、工兵隊、

通信隊、野戦病院

出発時総勢(この正確な人数が不明、ご存知の方ありましたら教えてください)

 

1941年11月編成終了後ただちに宇品港出発

第14軍司令官の隷下に入る

(1942年 大東亜戦争勃発)

1943年1月より年末までフィリピン(バターン戦とルソン島の警備)

1943年末から終戦までニューギニア領ニューブリテン島(第8方面軍所属)

 

 

 

リンク

 

第六十五旅団「夏兵団」

http://www.blade-arts.net/65_141/001.html

年表

 

水木しげる

http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2010/08/post-3a5e.html

腕失ったニューブリテン島

 

毎日新聞社

http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html

戦後70年:数字は証言する

 

太平洋戦争戦跡地

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

戦没者の60%強140万人は餓死であった

 

http://www.blade-arts.net/senseki/senjin_photo.html

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祖父と戦争① おじいちゃんからまごへのせんそうのはなし

2014-09-03 14:13:46 | 祖父と戦争

祖父の死後13年も経って、突然その従軍の手記が手元に来たのは偶然ではないようにも思える。

これを書いている2014年現在の日本は、彼の大戦の反省をことごとく忘れて、喪われた多くの命を踏みにじるような政策が国家権力によって次々と打ちたてられ既成事実化し、金銭の腐臭ときな臭さが鼻につく戦争前夜・・そんな時代だからかもしれない。

数年前より、幼い自分に時折、それもポツリポツリと、祖父によって語られた戦地の話がなぜか思い出されて仕方がなかった。それを母に話したところ、これまで存在すら知らなかった祖父の戦地の記録が突然現れたのである。

祖父の手記が掲載されているのは「続 第六十五旅団 夏部隊の記録」で、終戦後40周年の節目に戦友会が企画出版した880ページに及ぶ文集。その9割が死亡と言われる地獄の戦場から生還した元兵士たちによる貴重な記録だ。しかし母によれば祖父は、自分の娘息子にも、ここに寄稿していることを話さなかったらしい。祖父が死ぬわずか前に母がこれを受け継いだのもまた、偶発的な必然なのかもしれない。祖父が何を思って戦後50年余りを生きたのか・・残念ながら今となっては知る由もないけれど、この、祖父とその戦友たちが書き残した記録を紐解き、無名の兵士たちの壮絶な体験を少しでもまとめ、誰かに伝えたい・・・いや、伝えなければいけない気持ちに駆られて書き始めたのである。

 (写真)

右から
・丸亀 歩兵第十二連隊 百十年祭記念誌
・夏部隊の記録
・続 夏部隊の足跡(総集編)
上は「続夏部隊の足跡」帯。

帯の記載文
「比島、ニューブリテン島及 マーシャル諸島に於ける 思い出の記録」「比島、ニューブリテン島及マーシャル群島に於ける苦闘の体験を、四十年の歳月を重ねて今ぞ共に語り、分ち合う・・・ 弾薬、糧秣の補給なく、灼熱瘴癘の地、飢餓の極、遂に果てた亡き戦友のことを涙しつつ語り、この記に蘇らし度いと念じながら・・・」

 

<おじいちゃんからまごへのせんそうのはなし>

祖父はあまり、戦争体験を語らなかった。ただ、ごくたまに、戦争の話ではなく遠い異国の体験を聞かせるように話してくれたいくつかのエピソードがある。今も覚えているのは、同じシーンだけ繰り返し聞いたからだと思う。

誰が死んだ、どのように死んだというような悲惨なシーンではなく、また自分たちを戦場に駆り立てた者に対する恨みごとも無かった。戦場におけるつかの間の楽しみや幸運だけを祖父は孫に語った。あるいは他は語りたくもないことだったのかもしれない。

祖父の手記を読んでつながった記憶もあるので、記憶違いもたくさんあることとは思うが、覚えている限り、なるべく祖父の語りそのままに、書きとめておきたい。

 

一円バナナ

兵隊がいるところに、土人がたくさん物を売りに来るんだよ。バナナとかパパヤーとか、食べたいけどもお金がないから食べられなくてね。試しに日本の一円玉(もしかしたら一銭?)を出してみたら、喜んでバナナを房ごとくれたんだよ。びっくりしてどうするんかと思て見とったら、一円玉を上手に石で叩いて伸ばして、耳輪や鼻輪を作るんに、珍しいから欲しがる。アルミはやらこいからね。でも帰ってその話をしたら、バナナが欲しくて兵隊がみんな一円玉を出すようになって、一円玉3つでひと房になって・・・そのうち一円玉はもういらんと言われてしまったんだよ。

 

ジャングルの果物

みんなお腹をすかしてジャングルの中を歩いていたら、何か実が成っとる。おじいちゃんはそれは毒だと思ったから、「食べるな~、食べるな~!」と言ったけれども、みんなお腹がすいているからやまらない。おじいちゃんはなんとか我慢したから大丈夫だったけれども、そこで食べた人たちは、みんなバタバタと倒れたんだよ。ジャングルの中で生っている実は、みな毒だよ。

 

ジャングルの水

ジャングルの中は水がないからね、そのうち水筒も空になって。でも歩かんといかんから、歩きながら太いつるを切ると、水が出てくるのがあるから、たくさん出そうなのを探して切って、水を飲むんだよ。

 

ジャングルを抜けたら大きな川の河口に出て、見たらそこにシジミ貝のような貝がたくさんいたんだよ。ジャングルの中でみんなずっと、なにも食べるものがなかったから、「みな、とまれー!」「貝がある、探せー!とれー!」と掛け声をかけてみんなで空の飯盒を下げて一生懸命採ってきて、飯盒で炊いて食べたんだよ。塩水で炊いて、ひさしぶりのご馳走だったんだよ。

 

自活生活

そのうち戦争に負けてアメリカの兵隊さんが来て、みな一か所に集められたんだよ。もう逃げるもんもおらんから、朝起きたらみんな歩いて出て、穴を掘って自分たちが食べるための芋を作って、夕方になるとまた柵の中に帰って寝とったよ。ジャングルの中の生活よりは、だいぶんよかったよ。

 

祖父の手記と照らし合わせてみると、初めの果物の話だけは、フィリピン島のバターン総攻撃のあと、第二機関銃中隊に転属となってカバナツァン市に駐留しているころかもしれないと思われる。そのほかの話は、その後送られたニューブリテン島で島の西端ツルブの戦場からラバウルまでの話で、祖父から聞いた当時(8歳から10歳か)は、のんきな祖父の口調から死の恐怖を感じ取ることは無かった。しかし、この体験の背景が分かる今は、その祖父が語る「うれしかったこと」は、その悲惨さに、かえって息をのむ思いである。

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