幸福の芽 happy sprout みろく maitri

《心の時代へのパラダイムシフト》 自分の心をつかんで幸せになりませんか。幸福の芽を探して一歩前に出てみませんか。

「魔の存在」について

2011-01-10 04:00:00 | みろく神示
以前、このブログにMiroku shows the Godのことを
書いたとき、ひとつの降魔になると書いたことがある。

そのとき、魔の存在についていつかこのブログに書く
ことがあるのだろうかと書いたと思う。
たぶん一日のブログで済むことではないと思う。

話は変わるが昨年、キリスト教の大切な教えである。
「 汝の主を愛せよ。
  自分のことのように汝の隣人を愛せよ。 」

このことを仏さまのことばを補足して書いた。  
「 汝の主を愛せよ。
  なぜなら汝の主は愛であるからだ。
  ならば神性を持つ汝の隣人を愛せよ。 」

実はこのことばの続きとも思えることが
その後書かれた「THe Laws of the Universe 」の
まだ書いていない続きの中に含まれていると思う。

「魔の存在」というと西洋のものというイメージを
持つのは私だけだろうか。
もちろん様々な宗教で語られていると思う。
迷える憑依霊とは違って、魔というものは
積極的に悪を行い、悪に導くということになると思う。

最初に書いた降魔のことでわかることがあると思うが
「魔の存在」は悪いものである。人々を不幸にする。
力で自分の思いどおりに支配しようとする。
仲間を増やし、社会的に支配をしようとする。

しかし、私が仏さまから何度もお聞きしていることに
これだけでは説明できないものがある。
その内容を直接書かないが、信仰における「魔」と
いうものの心について考えてみたい。

信仰で言えば「魔」の存在は逆に「神になりたい」と
思っているのである。
神仏はこの世をつくり人々を幸福にしたいと考えて
おられる。
そのために時代の精神になるような救世主が
その時代時代におられ、真理という法によって
人々を幸せへと導きたいと思っておられた存在があった。
魔の存在はどうか、自分が世の中を支配し、
人々を統治したら世の中はそれでいいのだと考えている。
自分が偉い存在になり治めたらそれがいいと考える。
全てが自分の思い通りになると神になったと思うようにも
なることがある。

キリスト教で「魔」の議論をすると「悪」であるとばかりに
言われないことがある。
キリスト教には罪に対し、反省、懺悔がある。
あまりに不幸や災害が我が身に訪れると魔は神と契約して
いるのかという考え方があると思う。
このことについては「否」である。
これの説明はまたの機会にする。

「魔」の心には「なぜ、この地上で神として生きていた者と
自分が同じことをしているのに、自分は地獄に落ち、
苦しまなくてはならないのか」というものがある。

私の行う降魔はかならず悟りの言葉が伴う。
このブログで数々の降魔を行ってきたが、一番大きな
ものは未だ先送りになっている。

魔は「なぜ、この地上で神として生きていた者と
自分が同じことをしているのに、自分は地獄に落ち、
苦しまなくてはならないのか。」
今世、多くの人が納得できる答えが出すときが来れば、
世の中は大きく善転していく可能性がある。
まだ、可能性としてしか言えない。


別のことだが
この世にいる人に「魔がとりついている」と
いうことがあると思う。
以前霊視、霊聴の正邪が難しいと書いた。
もし、そういうことが公になれば
その人にあるいは国にレッテルを貼ることになる。
その人が成長できないばかりか、
反発して友好な関係が築けないことが多い。
もし、「魔がとりついている」というなら
そう言っている人が自らその相手を浄霊していく責任が
伴うものであると思う。

そういう以前にどう多くの人にとってよい道に
導くかという知恵が必要だと思う。




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