本日はこのブログの「日月神示」について書くように
インスピレーションがあった。
昨年12月末に突然始まった「日月神示」のインスピレーション
今未だ、あのとき購入した本は読んでいない。
「 日と月
日は光り、世を照らす法となる
月は日の光を法とし、法を行じ光となる 」
「 日と月はふたつでひとつでなくてはならなかった。
法を行じ、ふたつがひとつになれば苦しむことはなかった。
しかしひとつにならなかったから
みろく神示がおこなわれることになった。 」
このブログの「日と月」について
この「日」というものは法を説く者、もしくは組織
そして「月」とは法を学び、それを行じて光になろうと
している者、もしくは組織、あるいは法を学ぶ者と
考えていいのではないかと思う。
「個人対個人」という感触が私にはない。
未だ本を読んでみようと思い立つことがないが
初めて日月神示の「日月」はどういう意味なのだろうかと思った。
しかし、たぶんこれからもとらわれず書いていくと思う。
ただ私が強く感じるのはこのブログに書かれている
仏さまの意識として
「 日と月の間に地球を内包している仏さまが現れる 」
霊的存在としての神仏の存在の証明が
多く含まれていると考えられると思う。
今年1月1日の朝4時に月食があった。
そのときのインスピレーションは
「まず、法を説く者たちから始まる、月が欠ける。
法を説く者たちがあなたを悪く言うだろう。」
というものだった。そして仏さまの意識が私を包んだ。
インスピレーションがあった。
昨年12月末に突然始まった「日月神示」のインスピレーション
今未だ、あのとき購入した本は読んでいない。
「 日と月
日は光り、世を照らす法となる
月は日の光を法とし、法を行じ光となる 」
「 日と月はふたつでひとつでなくてはならなかった。
法を行じ、ふたつがひとつになれば苦しむことはなかった。
しかしひとつにならなかったから
みろく神示がおこなわれることになった。 」
このブログの「日と月」について
この「日」というものは法を説く者、もしくは組織
そして「月」とは法を学び、それを行じて光になろうと
している者、もしくは組織、あるいは法を学ぶ者と
考えていいのではないかと思う。
「個人対個人」という感触が私にはない。
未だ本を読んでみようと思い立つことがないが
初めて日月神示の「日月」はどういう意味なのだろうかと思った。
しかし、たぶんこれからもとらわれず書いていくと思う。
ただ私が強く感じるのはこのブログに書かれている
仏さまの意識として
「 日と月の間に地球を内包している仏さまが現れる 」
霊的存在としての神仏の存在の証明が
多く含まれていると考えられると思う。
今年1月1日の朝4時に月食があった。
そのときのインスピレーションは
「まず、法を説く者たちから始まる、月が欠ける。
法を説く者たちがあなたを悪く言うだろう。」
というものだった。そして仏さまの意識が私を包んだ。