ミーマン日記

週1回ディサービスに夫婦で行って、楽しく過ごしています。

新緑の洛北に・・・(^^♪

2008-05-28 10:13:29 | お友達・・・(映画・旅行・お食事)
24日(土曜日)マイミクのハヌルさんと、あきちゃんと3人で、新緑の洛北に行って来ました。

まずは、知り合いのタクシーの運転手さんが、ハヌルさんをお迎えに・・・

私達は、家の近くで待つことに・・・今日の天気予報は、午後から
車で廻るから~まあ~良いかと・・・雨の洛北も風情が有って良いかもね~

ハヌルさんってどんな人なんでしょうか~ と想像をめぐらせていると、タクシーが着き、中からハヌルさんが~「始めまして・・・」の挨拶から~何と可愛い人、思っていたよりは、お若いのね~

車で15分ぐらいの所に「詩仙堂」が有り、先ずは「詩仙堂」見学・・・



現在「詩仙堂」と呼ばれているのは、正しくは凹凸か(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。
凹凸かとは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
「詩仙堂」の名の由来は、中国の漢普唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた。
”詩仙の間”を中心としているところからよばれる。



堂上の楼



僧都ー(鹿おどし)

現在は曹洞大本山永平寺の末寺

次に向かったのが、「曼殊院」
「曼殊院」は、もと伝教大師の草創に始まり(ハ世紀)比叡山西塔北谷にあって塔尾坊と称した。
天歴元年(947)当院の住持、是算国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅使により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。
また天仁年間(1108~9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて「曼殊院」と称した。
現在の地に移ったのは、明暦二年(1656)で、桂宮智仁王の御次男(後水尾天皇)良尚法親王の時である。
親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心された。庭園、建築ともに親王の識見によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い。

虎の間・竹の間・孔雀の間・大書院・滝ノ間・十雪の間・富士の間・黄昏の間・丸炉の間等沢山のお部屋が有りそれぞれに、有名な画家の絵が描かれれていた。
又舟形の部屋なども有りました。



庭園は(名勝庭園指定)遠州好みの枯山水



少し雨が降ってきましたが~雨にぬれた新緑が又一段と輝いて見えますね。 心が和みます。

次に向かったのは、「大原三千院」

此処で先ずは、昼食と、お店に入り「湯豆腐定食」を注文する。




以前嵯峨野で、食べた湯豆腐と味が違う・・・
湯豆腐は、やっぱり嵯峨野に限るね。

長くなりますから~「三千院」・「宝泉院」・「寂光院」は、明日に書きます。
お楽しみに・・・見てね。