身勝手な主張

日々感じた様々なことを、自分勝手につぶやき主張します。

1980年代・90年代前半のパーソナルコンピュータ ~NECのPC9801シリーズ

2013年04月30日 | 日記
2013年4月30日(火)


  昔の恋人が忘れられないように、1980年代のNECのパーソナルコンピュータPC9801シリーズも忘れ
がたい。きのう、久しぶりに1980年代中頃ぐらいのPC9801シリーズ用のゲームソフトを動かしてみた。
PC9801シリーズといっても、実機があるわけでない。ゲームソフトといってもWindows上で動くソフト
でもない。まして、NEC用に作り替えられたOSであるMS-DOS上のゲームソフトでもない。N88BASIC(86)で作
られた、今から見るとちゃちに思えるゲームである。
  PC9801シリーズ上で動くソフトは、Windowsパソコン上のエミュレーションソフトを使って動かす。エ
ミュレーションソフトというのは、今のパソコン上にPC9801シリーズのハード環境を仮想的に構成する
ソフトである。全てのソフトが動くとは限らないが、極端にマシンに依存したソフト以外はだいたい動く。言わ
ば、バーチャルマシン上でソフトを動かすのである。

  私が初めてパソコンを購入したのは、1981年頃だと思う。まだ8ビット機の時代で、確かNECのPC8801
だったか?本体だけで30万円以上したと思う。ブラウン管のモニター、ドットプリンターも10万円以上の
時代である。
  今から考えると信じがたいが、1980年代はじめの頃はソフトなどほとんどなかった。パソコンを動かす
ためには、自分でプログラミングしなければならなかった。プログラミング言語は、N88BASICであった。一応、
   N88BASIC・・・・・・PC8801用のプログラミング言語
   N88BASIC(86)・・PC9801用のプログラミング言語
となっていた。この言語は、Floppy Disc Drive の管理も行っていた。フォーマットやファイル操作など
N88BASICが全て管理していた。いわばプログラミング言語がOSを兼ねていたのである。N88BASICがどのような
言語であるかは、数学のセンター試験を見れば、プログラムに関する問題が出題されているので感じはつかめると
思う。
  私はPC8801上で動く成績処理のプログラミングをした。今ならEXCELのマクロで組んだ方が遙かに簡単
であるが、当時相当の時間をかけて作った。悲しいことに自由に使えるメモリー空間が64KBしかなく、よく
メモリーアウトと表示されて止まってしまうことがあった。(この状況は、16ビット機PC9801シリーズでは、
少なくなった。)メモリー空間の問題もあって、私もPC9801シリーズに移行した。

  さて、1980年中頃にPC9801VMが発売されると、パソコンが爆発的に売れ、完全に8ビット機から16
ビットへ移行した。パソコンもビジネスに使う時代になり、MS-DOS上で動くソフトも次第に多くなってきた。ワー
プロソフトの一太郎、表計算のロータス123などが全盛を極めた。特に、日本語入力のATOKは、絶大な人気を
博していた。
  1990年代に入ると次第にPC9801シリーズは、(1)安いこと、(2)性能がいいこと、(3)ソフトウェア
で日本語環境を実現したIBM社開発のDOS/Vが登場したこと、さらに(4)Windows3.0、3.1の登場によってその
上のソフトは機種依存しないようになったことなどあって、AT互換機(DOS/V機)にシェアを奪われていった。
1990年後半にはNEC自身がAT互換機(DOS/V機)を発売することによって、国民機だったPC9801シリーズ
(のちのPC9821シリーズ)は静かに役目を終えて消えていった。

  こうしたパーソナルコンピュータの歴史とともに生きてきた私の正直な感想、NECのPC9801シリーズは、
AT互換機より遙かに頑丈で、取扱いも楽でよくできたマシンだと思った。今から思うと、Video表示を独自の
800×400ドットの組み込みのVideoなどを使わずに、当時の(今も)AT互換機のようにVideoカードの交換
によって解像度を高めていく方法を取れば、もっと延命したと思える。PC9801シリーズは、本当によくできた
マシンだったと今も思っている。1社独占だったから高かったことと、CPU性能が劣っていた(当時は、比べるマシ
ンが少なくて、CPU性能については劣っているとわからず)ことの2点を除いて・・・・。

  
  情報機器は、往々にして性能が優れた機器が市場を圧巻するとは限らない。ソフトウェアも同様である。
そして、これらの機器やソフトウェアの悲しいところは、あるところが半数以上占める様になると多くは市場から
退場しなければならなくなることである。一太郎もWordに押されシェアを落とし、ロータス123はEXCELに負けて
OPENソフトになってしまった。私がよく教材開発に使ったNECのPCスカイは今はない。MS-DOS上で動くネットワー
クOSとして一時市場を圧巻したネットウェアも今はない。
  これらは私から見れば当時優れたものであったが、市場に乗り損なったがゆえに消えていく運命となった。
ハードウェアでは、NECのPC9801シリーズがその代表なのだろう。いずれにしても、NEC自身がAT互換機(DOS/V
機)を発売することをもって、パーソナルコンピュータの一つの時代が終わった。

  
  バーチャルマシン上でN88BASIC(86)で作られたゲームを動かしながら、そんな感慨にふけった。


(追記)
1.パソコン関連のブログ
Windows XP のサポート終了 ~2014年4月8日に
Windows8 ~Windows使用歴
Windows Server 2012の導入準備
ウルトラブック(ノートパソコン)を購入
ウルトラブック(パソコン)が崩れた! 
パソコンの組み立て
データーが消えた!

2.NECのPC9801シリーズのエミュレーションソフトは、
   Tー98NEXT
 を使い、Windows Vista 上で動かしている。
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サツマイモの苗50本を植える

2013年04月29日 | 日記
2013年4月29日(月)


  昨日日曜日は穏やかな晴天であった。そこで、久しぶりに農作業をした。昨年は5月に入ってからだった、が今年は
少しだけ早く作業をした。朝8時に開始した。

  まず、畑を耕す。このとき、いつも活躍してくれるのがミニ耕耘機である。家庭菜園の延長であるから、それほど
大がかりな農機具はいらない。だからといって全て人力でやるにはちょっと・・・という広さである。最初ミニ耕耘機の爪を
逆回転させて耕し、次に正回転させて耕す。だいたい2回やると、土も軟らかくかつ細かくなる。


大活躍のミニ耕耘機

 つぎにサツマイモを植える場所を作る。畝をたて、黒マルチをはる。そして、そこにサツマイモの根元を土団子に
して、植えていく。


植え終えたサツマイモの苗


黒マルチに直接サツマイモの苗が当たらないようにする

 昨日はサツマイモを植える前にカボチャの苗3本も植えた。


囲いの中にカボチャの苗が植えてある


こちらは以前に植えたジャガイモ・・・大きくなった

  ただし、植えるのは私の仕事でない。すぐに植えられるようにすべて準備するのが、私の仕事である。念のために。

  全ての作業を終えたのは、11時30分であった。



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岐聖大附属中学校のグランド、ほぼ完成 ~一変した岐聖大附属高等学校跡地

2013年04月28日 | 学校・大学での出来事、教育問題一般等
2013年4月28日(日)



岐教大・岐聖大附属高校の跡地。ほぼ完成した附属中学校グランド。
遠方が附属小学校、手前が附属中学校。

  早いもので岐阜聖徳学園大学附属高等学校が閉校になって、もう1年と1ヶ月近くになる。以前にも
このブログにも書いたが、岐聖大附属高校は私にとって思い出深い高校であった。

  20年以上前にこの高校(当時は、岐阜教育大学附属高等学校)で1年間、非常勤講師として数学を
教えた。非常勤と言っても持ち時間が15時間もあったので、毎日通った。受け持った学年は、中高一貫
クラスと2年生の私立文化系クラス、それに3年生の私立文化系クラスだった。そのときに親しくしてい
ただいた先生も、今何人か附属学校に残ってみえる。
  当時庶務を担当して中学校や塾を相手に生徒募集に携わっていられた理科のT先生は、定年後現在附
属小学校の副校長として勤めてみえる。岐聖大附属高等学校の閉校時の校長先生でもあった。春休みに学
食で何回かお見かけし、挨拶を交わした。
  同じ数学という教科でお世話になったK先生は、今は附属中学校の教頭先生をしてみえる。私は社会
科の教員免許状を所持していた関係(社会科は、教えていない。)で、社会のI先生ともよくお話しした。
当時、コンピュータの話をよくした記憶がある。現在、附属中学校で教鞭をとってみえる。I先生は、大
学の附属仏教文化研究所の研究員も兼任されている。

  先生だけでなく、当時の多くの生徒の顔を思い浮かべることもある。当時2年生で、塾で1年間中2
生として教え、附属高校でも2年生のときに1年間教えたWさん(初めて会ったときは、びっくりした)。
また、数学が得意なAさん、さらに数学は非常によくできたが意外にも国語が大の苦手なBさん・・・・。男生
徒も女生徒も当時の顔を思い出す。ただし、その後だれひとりとして、一度も会ったことがない。もう38
歳ぐらいなのだろう。いいお父さん、お母さんに成長していることだろう。

  一番最後に勤めた塾でも、岐聖大附属高校の卒業生3人と知り合いになった。卒業当時のT校長先生
の紹介で塾の非常勤講師としてアルバイトにきたMさん、Iさん・・・。Mさん、Iさんとも私と約1年7ヶ月一緒
であった。いずれも、彼女らは附属高校から指定校推薦で岐聖大教育学部へ進学して、現在4年生である。
私と出会ったのは、Mさんとは私と同時期に塾に勤めたので大学へ入学する直前の3月終わり、Iさんとが
5月であった。

  彼女らと1年後輩のFさんは、私と塾で7ヶ月間一緒だった。Fさんは附属高校の生徒募集のパンフレ
ッドの表紙を飾ったり、卒業式で総代を務めるなど優秀な生徒だったと聞いている。現在岐大教育学部の3
年生である。(私の塾での教え子であり、同僚だった岐大教育学部の4年生の学生の妹でもある。)

  生徒募集のパンフレッドといえば、背の高いMさんも黒板の前で友達と語り合っている姿が写真にのっ
ていた。髪が長いのは変わらなかったが、女子高生のときのMさんと塾でのMさんとずいぶん印象が違うな
あ、と思ってその生徒募集のパンフレッドの写真をじっと眺めていた当時のことを思い出した。

  このように思い出の深い岐聖大附属高校であるが、今は附属中学校の体育館・グランドに変わり、新
たな役割を果たそうとしている。


附属中学校のグランドと遠方に見える体育館

  私は大学の北東の端にある駐車場から大学への行き帰りにグランド入り口の門の前(附属高校の正門
だった。)を通るたびに、当時の校舎を思い出す。


(追記)
岐教大・岐聖大附属高校関係のブログ
思い出は永遠に ~崩されつつある附属高校の校舎
附属小学校・中学校の体育館建設 ~旧附属高校の跡地の整備
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どうなる、教育委員会制度 ~「教育行政学」の2つの授業感想から

2013年04月26日 | 大学院
2013年4月27日(土)


  昨日金曜日の授業は、M先生の「教育行政学」であった。この授業は、教育学部4年を対象とした中学校教員
免許状取得希望者の教職選択科目のひとつである。当初より受講者が増えて、25名ほどが受講している。

  さて、昨日の授業内容は地方分権改革と関連して、教育委員会制度の概要である。
  1948年、教育委員会法が制定され、アメリカの制度を導入して行政委員会として教育委員会制度が発足
した。それは、レーマン・コントロール layman contorol(住民統制・素人支配)といって、教育行政を素人集
団であって住民の代表である教育委員の合意によって意思決定していこうとする仕組みである。その教育委員会
法が1956年に廃止され、「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(地教行法)にかわった。教育委
員会法の下での強力な(公選制によって裏付けられた)教育委員会の権限は弱めらた。教育委員会は、教育に関
する条例および予算の議会への提案権も失った。
  とはいえ、旧教育委員会法同様に地教行法は、レーマン・コントロールの精神、教育の普遍性を追求する姿勢、
そして一般教育行政からの教育行政の相対的独立の精神は受け継いでいる。今、その地教行法・・・教育委員会
制度が揺らいでいる。

  橋本大阪市長をはじめとする新自由主義勢力の台頭は、首長の教育行政への権限強化(首長の教育行政
を直接所管することも含め)、教育に競争原理の導入を求めている。大阪府の「教育行政基本条例」や大阪府・
市の「国旗・国家条例」にその姿勢が顕著に表れている。このような新自由主義的な直接的な教育委員会制度の
否定は、危険である。条例の制定によって有無を言わせぬ姿勢は、害あって利なしと言わざるを得ない。
  今日自民党の関連部会や教育再生実行会議の審議も、結論を急ぎすぎる。道徳教育の教科化なんてナンセ
ンスであるとは、前に述べた。
先の自民党政権による教育基本法改正(私に言わせれば、「改悪」)もそうで
あるが、教育の右傾化が進んでいると、感じているのは私だけであろうか。

  教育委員会制度をどうするのか?各都道府県・市町村に必ず置かれるものと地教行法が定めているが、これを
首長の選択制にして必置義務をはずしたらどうか、こう主張する行政学者が多い。それに反して、教育委員会制
度を維持していきたいと考える教育行政学者・教育学者は、教育委員会活性化の方法を学問的に検討する必要が
あろう。そして、更に教育委員会の必置義務が地方公共団体から外された場合に、どのような教育行政に陥るの
か十分な学問的な検討結果を提示する義務があると思う。残念ながら「教育委員会の活性化」を主張する人々は、
文部科学省の関係者も含め、十分な案を出しているとは言いがたい。私は、真に「教育委員会の活性化」を考え
るならば、旧教育委員会法で定められた権限を教育委員会に与えることと、学校裁量を多く与えることにつきる
と思っている。競争原理に基づく学校間競争は問題が多いが、各学校がある程度自由に使える財源をもって特色
ある教育が行えるよう改革していく必要があると思っている。

  昨日のM先生の現在の教育委員会制度の仕組みをききながら、そんな思いを抱いた。修士論文のテーマにも
直接関係する授業なので、真剣に聴講している。また、N先生の大学院の授業「教育行政・経営特論」も実際の
運営面の問題点を論議することも多いので、こちらも面白い。
  いずれも自分の問題意識をはっきりさせたい。そして、海津市中学校統合問題のもととなった旧南濃町時
代のT町長下の教育行政を分析する中で、論じたいと思っている。それが私の修士論文のテーマだからである。


(追記)
1.「君が代」は平安時代に詠まれた和歌で、古今和歌集に収められている。「君が(の)世」の「君」は必ずしも
大君(天皇)を意味するとは限らないらしい。しかし、明治時代から戦前においても、今日どうしても「君が代」を
国歌として定着させたいと思っている勢力は、「君が代」を「天皇の世」に解釈してきたし、したいらしい。
  日本国憲法は「国民主権」を三大原則のひとつにし、憲法改正で変えることのできない原則としている。そして、
天皇の地位については、主権者たる国民が決めるとしている。こうした憲法の原則に反するような「君が代」を私は
好きでない。もうすこし、まともな国歌が制定されればいいと、いつも思っていた。
  まして、その「君が代」を条例で強制するなど、感心しない。「君が代」の「口ぱく」を問題にした大阪府の民
間公募高等学校校長がいたが、問題にする校長こそ問題である。口ぱくの教員を調べるなど、実にくだらない(校長
として他にやることがあろう。)この点は、記者会見で「口ぱく」を容認していた猪瀬東京都知事の見解こそ常識的
なのだろう。

2.今日土曜日だけれど、レポートをどうしても1つ完成させたいので、大学へ行くことにした。
大学は、29日は祭日であるが授業日。5月2日(木)~5月6日(月)までが休みになる。5日間の連休である。
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岐阜県薩摩義士顕彰会の春の顕彰行事、そして光ファイバー導入

2013年04月26日 | 日記
2013年4月26日



 昨日、木曽三川公園・・・午前10時から海津市海津町大江地区にある治水神社で岐阜県薩摩義士顕彰会の
春の顕彰行事が行われた。毎年、岐阜県薩摩義士顕彰会の主催で春、秋の年二回行われる。春は治水神社の
神事として、秋は仏事として行われる。
 揖斐川を長良川・木曽川から分離するなど宝暦治水に活躍した薩摩義士の業績をたたえるとともに、その
犠牲者を祀ることが行事の目的である。遠く鹿児島市・霧島市の関係者、薩摩義士の遺族等の参加とともに、
海津市の関係者が多く参加する。ほぼ1000人以上に招待状が送られていると思われる。
 
  春の例祭は、大江地区油島の各自治会が御輿を出す。




 油島の各自治会の御輿の一部

 その御輿が、神社の拝殿には入ってからしばらくして春の例祭が始まった。まず、外でお祓いを行ってから拝殿に
入り、顕彰会例祭が行われる。


 外でのお祓い


 拝殿に入る参列者

  拝殿の中では、行事が進行する。顕彰会長の終わった頃に、自宅からメールが来た。自宅の光ケーブルの設置工事
が午後2時から午前11時に急きょ変更になったので、すぐ帰れとの内容だった。会場から家までは車で5分~10
分ぐらいである。それでも、あわてて自宅へ戻った。以後の行事については、よくわからない。悪しからず。


 拝殿の様子・・・顕彰会長の挨拶


 拝殿の外の参列者

 
  家での光ケーブルの敷設工事は、午前11時に始まって、午後2時30分までかかった。インターネット環境が
ケーブルの同軸ケーブルから光ケーブルに変わった。実行速度は、下りがほぼ80M、のぼりが12Mぐらいである。



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