古代ローマの喜劇作家、プラウトゥスの「捕虜」とテレンティウスの「アンドロスから来た娘」を読んだ。
悲劇は古代ギリシャの3大詩人(アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス)と近代悲劇、たとえばラシーヌとの間には時代のギャップ感じない。(シェークスピアはちょっと癖があるけど・・・)
ところがアリストファネスとモリエールとの間にはとってもギャップを感じていた。
でもアリストファネスの最後の作品「福の神」からメナンドロス、そして今度読んだプラウトゥスとテレンティウスの作品を読んでギャップは解消した。
アリストファネス最後の作品「福の神」はそれまでの作品と違って風俗劇的要素が強い。
そこにはもうあの辛辣な政治批判はない。
雲の世界や鳥の世界や黄泉の国への旅もない。
そして登場するのは貧相な福の神。
メナンドロスはさらに現実の風俗を描く。
観客をより身近な笑いに誘う。
そして古代ローマの喜劇。
ローマ帝国って嫌いだったので古代ローマの文学もほとんど読まなかった。
でもローマの劇は喜劇も悲劇もギリシャの模倣。
プラウトゥスもテレンティウスもメナンドロスの模倣。
でもそこにはローマ色もある。
とりわけ奴隷の存在は大きい。
もちろん古代ギリシャにも奴隷はいた。
でも主役は市民。
ところがローマの劇では奴隷が活躍する。
これはモリエールの劇では奴隷が召使になって主人をからかう。
「アンドロスから来た娘」では奴隷がまるでボーマルシェの「フィガロの結婚」のフィガロのように縦横無尽に才気を使って自分の都合のいいようにことを納めようとするけど、ことごとく失敗する。
「捕虜」では道化が出てきて、まるでシェークスピアの喜劇を見てるようだ。
今まで意図的に避けてきた古代ローマ文学、
この古代ローマ文学これからもうちょっと迷い込もうかなと思っている。