ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

野菜暴騰

2014年09月13日 08時25分03秒 | 山羊の話
野菜暴騰・・・らしい。
農家丸儲け?
ところが暴騰と言うことは野菜の出来が悪いということ。
というわけで我が家の野菜もめためた。
やっぱり豊作がいい!暴落は困るけど。

ところで子山羊がしょっちゅう柵から脱走して、乏しい野菜をかじる。
(どこから脱走するのか、いまだにわからない)
これは明らかに子山羊が悪いのに、なぜか家族の非難はこのぐうたら百姓に集中している。
こちらが野菜を盗んだこともかじったことないのに・・・
子山羊がかじったのに・・・
それなのになんで?
濡れ衣、無実の罪、不合理の世界。
そう、絶対悪いのは子山羊だよ!
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旅・断想

2014年09月13日 05時18分44秒 | 田舎暮らし
前日に墓参りを終って、今度は寺に行って法事。
墓はもちろん、法事のことも原始仏教にはなぁ~んにも書いてないのだけどなぁ・・・
なんてことはおいといて、
(あのぉ~、こちらが死んだら墓も葬式も法事もなぁ~んにもいらんけどね)
寺は長崎の郊外、西彼杵郡長与町と言う所にある。
長与というと、ミカンしかない滅茶苦茶田舎。
・・・子どもの頃はそう思っていた。
でも今では長崎のベッドタウン。
どこにでもある新興住宅地になっている。
今でもあちこちに宅地造成工事が目に付く。
長崎市が、ねぇねぇ一種にやろうよ、と色目を使って合併しようとしても、
いやだ!お友達になってあげない!!と拒んでいる。
・・・なんていう日本全国そこらそんじゃの普通の都市型近辺の町。

駅に降りて電話でタクシーを呼んで、途中いろいろ話を聞いた。
なんでも長与では宅地がどんどん増えているとか、
JRの「汽車(!)」が1時間に1本あるので便利だとか、
JRの駅が3っつもあるのが自慢らしい。
町にJRの駅が3つもあるのは日本で長与だけらしい。
でもねぇ・・・他に自慢することないの?
美しい自然とか・・・歴史的な遺跡とか・・・(大村湾すごくきれいなんだけどなぁ・・・)
なんて言わないで、そうですか、すごいね!とか話をあわせる間もなくすぐに寺に着いた。
意外と近い。

この寺は西本願寺系なのだけど、別の派閥(?)の寺。
木辺派というらしい。
それでここら辺とはちょっと違う。
ここら辺では大谷派はあまり聞かない。
ほとんど西本願寺派。
きっと江戸時代の流れで地域によって真宗系は大谷か西本願寺に決まったのだろう。
前回たまたま近くの寺に住職に法事頼んだら浄土3部教を全部2時間もかけて読んだ。
気合入っているなぁ・・・と思ったけど、それがここら辺では普通らしい。
というか、全国どこでもそうらしい。
ところがこの寺では30分くらいで終る。
派が違うからかなぁ・・・
でもこちらとしては2時間も座っているのはかなりしんどかった。
30分くらいがちょうどいい。
それに畳に座るのでなく椅子が用意されていた。
これは楽でいい。
でも・・・ちょっと味気ない。
そして30分くらいの法事の間に考えたことは、
坊さんってきっと日本で一番時給が高いだろうな・・・いい商売だよね。
京の祇園で遊びまくっている坊さんを想像してそう思う。
でも、現実はそうでもなく、寺の維持はとっても大変。
寺の修理もままならなくて、いたるところ廃寺が目に付く。

読経が終った後法話を聞く。
ごく普通の話でも法話となるとなんかとってもありがたく聞こえる。
そしていつもの癖で話を聞きながらついついほかの事を考える。
過去・現在・未来・・・この因果関係を仏教では解かれているけど、でもキリスト教には過去世はあったか?
神の創造以前に何があったか?
何もなかった。
現世の過ちが来世では未来永劫続く。
これってとっても恐ろしいことだと思うし間違っていると思う。
たかだか3年の高校の成績によって人生が決まるという学歴社会もおかしいけど、
それ以上にもっとおかしいと思う
天国って広さはどれくらいあるのだろう?
神がこっそり天国の宅地造成をしているって聞いたことないから、
きっと天国ってものすごく広い土地なのだろう。
それなのにどうして天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも厳しい、
なんてけち臭い、了見の狭いことを言うのだろうか?
民主主義って反対意見を尊重することによって成り立っている。
それなのにどうして、自分に反対する人は天国には入れてあげな~い!なんてけち臭いことをいうのだろうか?

ここは、善人なおもて往生をとぐ況や悪人をや。
というおおらかな気持ちになって欲しい。
悪人こそ救われないといけない。
いったいこの現世で悪いことをまったくしたことがない人がいるだろうか?
大なり小なりきっと誰だって悪いことをしてきただろう。
悪いことをしてきたからこそ救われたいと誰だって思うに違いない。
そこを救うのが宗教と言うものだろう。
・・・なんて思いながら法話を聞いていた。


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