ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

柳田国男記念館

2012年12月28日 18時25分30秒 | 田舎暮らし


昨日山羊を預けた帰りに福崎の柳田國男記念館に立ち寄った。
ここには柳田國男の生家が保存されている。
柳田國男が「日本一小さい家」といった家がどんなものか一度見てみたかったから。
家は確かに小さいけど、でももっと貧しい家はいっぱいある。





4畳半2部屋3畳2部屋の田の字型の家。
我が家も田の字型の家で6畳3部屋4畳半1部屋なので、我が家よりは小さいけどでも思ったほどには小さくはない。
ただここに2家族7人が住んでいたという。
さすがにそれでは狭かったかもしれない。
でも昔はどこも大家族、どこの家庭も同じようなものだったのかもしれない。
4部屋あるのなら、ひとつは親夫婦、ひとつは兄夫婦、残りの2部屋を兄弟4人で使ったらいいじゃない?
と普通では思うけど、昔はそうじゃない。
南向きの奥の一番いい部屋は客間。
家族は使わない。
その手前の部屋も客間に続く部屋、家族は使わない。
というわけで残りの2部屋を家族7人で使う!
・・・なんてからり悲しい暮らし。
古民家を見て、わぁ、いいなぁ!・・・なんていってるのは都会人だけ。
田舎の人は都会の家にあこがれる。
金があったら直ぐにでも壊して普通の家を建てたいと思う。
古民家住まいをすると古民家の悲しさがわかってくる。



ところで柳田國男はもちろんだけど兄弟がまたすごい経歴の人ばかり。
どうしてこんな貧しい家庭で兄弟がことごとく大学まで行くことができたのか?
ちょっと信じられないことだ。
もちろん親だけの力だけではなく、兄弟どおしの援助や親族の援助もあっただろうけど、国の教育制度のあり方もあったのではないだろう・・・
良く出来る子は学費無料でいける道が。
長男は最初師範学校に行ってから校長になりその後帝国大学医科大学に行っている。
確か師範学校は学費は無料ではなかっただろうか?
7男は海軍兵学校に。ここも無料でいける。
しかし無料だからといって、生活費はそれなりにかかる。
それでも大学にいけたということは、明治・大正、とりわけ明治時代には国が教育に力を入れていたということではないだろうか。
金があったら誰でも大学にいけるなんてものでなく。
高校の授業料無償化・・・なんて金をばら撒くのではなく、
特に成績優秀な人なら誰でも大学に行ける、
奨学資金の対象者を絞ってもっと支給金額を上げる、
大学の数も今の1/3程度でいいだろう。
大学生の数ではなく質をもっと上げてほしい。

ところで柳田國男の兄弟の略歴・・・
我が家の兄弟とはずいぶん違う。
もっとも兄弟の質を引き下げているのはもっぱらこのぐうたら百姓なのだけど・・・

■松岡 鼎(まつおか かなえ)
 儒者松岡操(約斉)の長男。万延元年生れ。はじめ師範学校に入り、郷里の小学校長となったが後に帝国大学医科大学で学び、医師となり千葉県布佐に住む。千葉県議会議員、県医師会長、布佐町長等となり、地方自治に大きく貢献した。昭和9年75歳で没。

■井上 通泰(いのうえ みちやす)
 松岡操の3男。慶応2年生れ。後に田原村吉田の医師井上碩平の養子となる。帝国大学医科大学に学び、眼科医となる。史学に造詣深く、歌人としても有名。宮中顧問官、貴族院議員、帝国芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜらる。万葉集新考、播磨国風土記新考等著書多数。昭和16年76歳で没。

■松岡 静雄(まつおか しずお)
 松岡操の7男。明治11年生れ。海軍兵学校を首席で卒業。日露、日独両戦役に従軍。海軍軍令部参謀、戦史編纂委員長、外国駐在武官等になったが、海軍大佐で退官。言語学・民族学を研究し、多くの業績を残した。著書に日本古語大辞典、蘭和辞典、太平洋民族誌等がある。昭和11年59歳で没。

■松岡 映丘(まつおか えいきゅう)
 松岡操の8男(本名・輝夫)。明治14年生れ。東京美術学校卒業後に母校の教授となる。大和絵の研鑚と発展に生涯をかけ、新興大和絵会、国画院を結成、画壇に大きな影響を与えた。帝国芸術院会員。昭和13年58歳で没。
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