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坂倉昇平『AKB48とブラック企業』

2014-06-17 09:16:00 | ノンジャンル
 工藤栄一監督の'67年作品『十一人の侍』をスカパーの東映チャンネルで見ました。亡き主君の仇を取る侍を夏八木勲、里見浩太郎、潮路章、1人で討ち入り殺される若い侍を近藤正臣、侍たちの味方をする侍を西村晃、仇の部下を大友柳太朗、仇の味方をする老中を佐藤慶が演じていて、ラストの泥沼の中での殺陣が迫力ありましたが、凝った画面構成は見られませんでした。
 また、澤井信一郎監督の'87年作品『恋人たちの時刻(とき)』もスカパーの日本映画専門チャンネルで見ました。北大医学部を目指す予備校生を野村宏伸、その母を加賀まりこ、昼間は彫刻のモデル、夜は歯科助手をしている若い女性を河合美智子、彫刻家を高橋悦史、その妻を大谷直子、彫刻家の愛人を真野あずさ、予備校の寮長を仲谷昇、バーテンダーを麿赤児が演じていて、冒頭のレイプ未遂のシーンがワンシーン・ワンカットで撮られていたりもしましたが、全体的に凡庸な印象が残る映画でした。

 さて、朝日新聞で紹介していた、坂倉昇平さんの'14年作品『AKB48とブラック企業』を読みました。
 最後の部分から引用させていただくと、「そろそろ本書のまとめに入ろう。AKB48は、その根幹に労働問題を抱えていた。AKB48は、日本社会の労働の縮図だった。その労働問題に対応した、歌詞と物語がつくられた。『生ぬるい水』『澱んだ空気』のなれ合いを脱し、『自由』で可視化された競争が期待された(中略)。同時に生じた『不安』に対して、『努力』を続けること(中略)が希望とされた。一方で、『同じゴール』を目指すことだけが答えではない(中略)。『比較』を限定しながら、自分の役割を見つける『マイペース』な生き方も模索された。また、変えることができない『運命』に『傷つく』ことを試練として受け入れることが奨励された(中略)。その困難を『仲間』によって支え合うこともあった(中略)。だが、『仲間』は、支え合い、耐えるだけではなかった。メンバーたちが運営に対して、あるときは『Noって首を振』り、あるときは自分たちの環境を自分たちで『改革』するために、チームやグループで連係し、発言することも試みられた(中略)。そして、『夢』を見るだけでなく、実現するために(中略)、『世代交代』に追い立てられたり(中略)、葛藤を抱えながら『卒業』を選ぶのではなく(中略)、しっかりとキャリアの経験を積んでいくことが望まれている。これらは、日本型雇用に似ている。日本型雇用は、仕事がはっきり明確化されていない、曖昧で偶然的な競争だ。そのため仕事ではなく人間性を品定めされ、誰もがエリート候補として基準なき出世競争に身を投じるしかない。仕事の範囲=命令の範囲も無限定であるため、理不尽な人事権を制限したり、自分たちの労働条件を自分たちで決めることもできない。また仕事のスキルも不確定であるため、組織内で活躍し評価されても、必ずしも外で通用するキャリアにならず、次の職場に移ることは難しい。、不明瞭な競争を走り続け、発言を封じ込められ、何が得られるのかもわからないまま、大量採用による競争の加速が繰り返された。若者たちは不安を抱えたまま退場に追い込まれ、年配者たちは組織にしがみつかざるをえない。その突破口となるのは、日本型正社員ではなく、出世競争に駆り立てられず、命令を限定するノンエリート正社員であり、会社に対して発言する労働者たちの連帯であり、会社に依存しない専門的な職業スキルである。さらに、AKB48では消費者と労働者の連帯の物語もあった。自分たちが何でも命令される労働者であることの裏返しとして、消費者は労働者に過剰な要求を突きつける。ソーシャルメディアの時代であるために、それは一層加速する(中略)。それに対して、ネットにおける消費者の声がメンバー内部の声と連係することで、労働者が一体となって、経営者の指示に歯止めをかけようとした(中略)。ネットの声、つまり消費者と労働者が手を組んで経営者に対抗するという、新しい社会運動のテストケースのようになっていた。このように、AKB48の労働の問題は、日本の労働と相似形をなした困難の歴史であり、闘いの記録でもあった。AKB48は単なる『夢のショーケース』でも、単なる『残酷ショー』でもなかった。いわば、現実の日本社会における労働をめぐる『代理戦争』であったのだ。(後略)」
 全編こうした記述がなされていて、私には正直退屈でした。上記の文章を楽しく読める方にはお勧めです。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

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