福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

生老病死2018(8) いのちの重さ 仏教の小冊子から学ぶ 

2018年08月11日 07時18分12秒 | コラム、エッセイ
 本日から我が家恒例の年に一度の墓参りミニツアーが始まった。明日岩手紫波郡にある江岸寺にお参りすることになっている。

 私は敬虔な仏教信者ではない。先祖の霊を祀るということで常識的な社会の通念の範囲で仏事的習慣に従っている。
 この季節は「霊」とか「いのち」に関する記述に目が行きやすい。本日は、先にどこかで入手していた小冊子に目を通し「シビ王と鷹」という小文に巡り合った。
 私は不勉強にしてこの説話を知らなかった。ちょっと感動した。

 以下がその文章である。
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 仁徳誉れ高いシビ王があると時庭を散歩していると鷹に追われた鳩がシビ王の腋の下にかくれこんだ。
 鷹はシビ王に鳩を引き渡してくれと頼む。シビ王の慈悲心と思いやり、晴け深さを讃え
ながら、鷹は鳩は自分の命の糧であるのだからどうか返してほしい、と懇願する。
 シビ王は考えたうえ、鳩の命を助ける代わりに、白分の肉を鳩と同じ量だけ鷹に与える
約束をした。

 まず鳩を秤にかけ、次いで自ら切り取った股部、臀部、肩部の肉をつぎつぎに秤台に乗せていった。
 けれども不思議にも鳩の重さにはには遠く及ばなかった。ついにシビ王は全身を秤に乗せた。すると、何と鳩の重さと同じ目盛りのところで秤の針がぴたりと止まった。

 つまり鳩一羽の重さも、シビ王の重さも命の重さとしては同じであった。命の重さは等しいと言う厳粛さにシビ王は深く感動した。その厳粛さを認識させてくれた鷹を礼賛し、「仏道を求めるためには、わが身命をも惜しまず」と言って、喜んで自らの命を投げ出そうとした。

 その瞬間に、鷹の姿は忽然と菩薩の姿に変わり、いずこかへ消え去った。同時にシビ王の傷はたちまち癒えて元の体に戻った。
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 これは『菩薩本生鬘論』にある「シビ王と鷹」の物語で「生命の重さ」という説話である。
 この話は後世、仏の布施を称賛する比喩として、インド古典集『大智度論』、『賢愚経』、『仏本行経』、『十住毘婆沙論』、『六度集経』など多数の漢訳仏典に引用された有名な説話と言う。

 冊子の解説を参考にしながら追記すると、雷神「帝釈天」と火神「アグニ」はシビ王を試すために、鷹と鳩に変身した。シビ王は鷹に「この鳩は庇護を求めて来た。この鳩を守らねばならぬ」と述べた。代わりに私の肉をさし出そう。しかし、シビ王の肉は切れどもきれども鳩の重さには達しなかった。最終的に王は自ら秤に乗った。 なんと鳩の重さと自分の重さは同じだった。
 すると鷹は「我々は今日、汝を試すためにやって来た。自分の身体から肉を切り取るとはすばらしい。この世で汝の名声は永遠に存続するだろう」と述べた。
 シビ王は「肉は割かれ血は流れても、私の心には怒りなく、悩み沈むこともなく、人に尽くせる喜びがあった。生きとし生けるものすべてを救おうという、この真実の誓願によって、この体も元通りとなることだろう」。 そう言い終わるや、シビ王の体は予言通り元通りになった。
 これを見届け、シビ王に真実の菩薩の姿を見出した二人の天人は、天上界へと帰って行った。

 なかなかいい話である。
 こんな説話に心を動かされると言うことは、命を扱う医療関係者として命の価値に知らず知らず格差をつけていたからかもしれない。

 改めて自らの医療を反省するとともに、医療の原点に立ち戻らされたような気がする。
コメント
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