北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

西の鯖街道・棚野坂峠から坂尻へと歩き、若丹国境尾根の自然を満喫.

2007-05-28 22:55:53 | 山・峠・街道
京都から若狭を結ぶ鯖街道.鯖街道と言えば、京都の出町柳から小浜を結ぶ色々なコースがあり、また朽木・熊川宿・根来峠などが有名ですが、若狭の海産物を京都へと運んだ道は数多くあります.高浜街道もその一つ.これについて書き始めると終わりがない.興味津々の街道であります.

今回、2台の車でまず名田庄の坂尻へ行き、1台を川原にデポ.もう1台の車で鶴ヶ岡方面へ引き返し、堀越峠のトンネル少し南の旧国道に入る.堀越トンネルが出来るまで国鉄バスが小浜まで走っていた道である.広い林道という雰囲気である.堀越峠少し手前にトンネルの南側から上がってくる道と合流する地点で車をデポ.標識に従い急な坂を上り始める.

この道はなかなかしっかりとした道であり、まさに鯖を担いだ人達が行き来したであろう雰囲気満点.ただ歩く人も少ないのであろう、時々木の枝が邪魔をする.枝を切り、道に倒れた木を処理しながらゆっくりと昇る.一度だけ5分ほど休憩して1時間弱で若丹国境尾根の稜線にでる.坂道を登っている時は風もなく少し汗をかき始めたが、稜線に出ると風を感じ爽やかだ.

ここからの稜線歩きは快適.木々の緑が素晴らしい自然林の中を歩く.棚野坂峠の辺りに六地蔵がある.ここで立て看板を発見.小畑 登先生が書かれたものである.

京都府立ゼミナールハウスの企画、「歴史古道 若狭街道探訪」を指導し、京都から若狭への様々な古道・峠をくまなく歩かれ、京都府立ゼミナールハウス友の会だよりに18回にわたる連載記事でその報告をされた方である.

>道の変遷は文化の動きであり、人間の歴史でもある.
>北桑田には京都と若狭を結ぶ古代の道が通じ、海の幸、山の幸、そして、
>都の文化が往来した.山村と山村をつなく峠道には米俵を担いだ古代人、
>材木を運んだ杣人、御所へちまきを献上した人々の足跡がのこり、四季折
>々の美しい自然が心をなぐさめてくれる.
>平安遷都1200年にちなみ、京都北山にのこる古道「若狭街道」をシリーズ
>でご紹介いたします.

という書き出しで始まるこの素晴らしいシリーズ記事を発見しむさぼり読んだ事を思い出す.ここ棚野坂峠以外にも、たしか権蔵坂、尼来峠にもその峠の歴史を看板に残されている.かの有名な「ああ野麦峠」の若狭・丹波版「尼来峠」の記事を読むとき、先生の熱き優しい心が伝わってくる.

この小畑 登先生、僕はお会いしたことがない.機会があれば、と楽しみにしていたのであるが、神は非常なり、この春、帰らぬ人となられてしまった.でも北山を歩くとき、歩いた後、いや山行のプランを立てるとき、我が心にはいろいろな事を語りかけていただけるであろう.

実は今日の下見は登先生のお兄さん小畑 實先生と一緒であった.お地蔵さんの写真の看板の横、麦わら帽子姿の人がお兄さんの小畑 實先生である.この方は熟年の星、今もお元気に薬草研究家としてあちこちを飛び回っておられる.いつか紹介記事を書きたい1人である.

次の写真は尾根付近の自然林とイワカガミの群生風景です.



若丹国境尾根の稜線から坂尻への途中は自然林が素晴らしく、また道も広く、ここを海や山の幸を背に担いだ人々が行き交ったであろう昔の幹線道の雰囲気満点.それとイワカガミの群生である.こんなに群生しているのを見るのは初めての経験である.花の咲く頃是非訪れたいものだ.若丹国境尾根にはイワカガミが多く見られそうです.

棚野坂峠から坂尻への下りは尾根を下るのであるが、これが下りか?と思うほどのなだらかな道である.途中大きな山崩れで道は林の中を通るようにテープの案内があるが、道が分かりづらかった.また坂尻の集落に近づくにつれ道も分かりづらくなる.

道を掃除しながらであり、堀越峠近くの登りから昼飯の休みも入れて4時間近くかかってしまった.

城丹国境尾根の山々も近場であり楽しいが、若丹国境尾根の古道や山々の雰囲気にも魅せられてしまった一日でした.

それに昔の堀越峠越えの道もドライブしよう、と自分と約束した.
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若狭から来たへしこ売り。 (道草)
2007-05-29 15:28:40
鯖街道へはずっと前に知人の車で確か堅田から入り、少し行った途中(花折峠)の手前辺りで鯖寿司を買ったことがあります。それからは、百貨店の食品売り場で、この鯖街道銘柄の鯖寿司をたまに買うこともあり、中々の美味との記憶があります。何でも若狭には「田植えの後や半夏生に焼き鯖を食べる」「お盆には鯖を半身にして開いたものを二匹串に刺して両親に贈る刺し鯖」という風習があったとかで、昔から鯖は名産だったのですネ。若い頃は知りませんでした。
それもさりながら、昔は若狭から宇津の里へも行商に来ていました。mfujinoさんも書いておられますように、鯖街道には様々なルートがあって、小浜から高尾~京都につながる周山街道もその一つだったとか。「京は遠ても十八里」とのことで、若狭から運ばれたひと塩の鯖は京の都に着く頃には調度よい塩加減になった、と聞きます。ですから鯖は寝ずに運んだらしいのですが、実際は宿場ごとにリレーをしたようです。
この街道は単に鯖だけを運んだのではなく、様々な魚介類や海産物も運ばれたのであれば、これは大量輸送の話でしょうから、となれば、辺鄙な宇津村へ行商に来ていたお婆さん達は何処から来ていたのか。持っている魚は鯷(へしこ)・丸干し鰯・干し鰈・塩鯖など、保存の可能な安い魚ばかりでした。わが家では時たまへしこを買うことがあり、弁当のおかずもこれが多かったものです。飛びぬけて塩辛く、ほんの一切れだけで弁当が食べられましたし、家ではお茶漬けにして食べたものです。何処かの中継基地から、その土地の人が行商に来ていたのかも知れません・・・。
若狭から(?)行商に来たのは北桑だけだったのでしょうか。家内は八木町出身ですが結婚するまでへしこを知りませんでしたから、商店が並ぶ町へは来なかったのかも知れません。私は、昔を忍んでへしこを買わせたので、家内は初めて知ったようです。当時と比較して、味には格段の差がありましたけれど。
「若狭よりへしこを売りにきしおうなのおろす荷物よ霰(あられ)たまれる」。宇津村時代の父が詠んだ歌です。やはり、あのお婆さん達は若狭から来ていたのでしょうか。大人達もそう思っていたようです。
鯖街道=塩街道とは (硯水亭)
2007-05-29 17:53:44
    MFUJINOさま

 私がよく知っている鯖街道は周山街道のことですが、やはり多くの鯖街道があったのですねぇ。朽木では鯖寿司を買って食べながら歩いたこともあります。更に民俗学では所謂『塩街道』が文化の伝播に最も多く寄与したと、柳田民俗学中心に一般的に言われているのですが、全国の塩街道を専門に研究した方もおりました。

 鯖街道で面白いのは背負子でしょう。塩を塗した鯖を熊笹などを多く用い、なるべくぎっしりと詰めて、重さが40キロぐらいを背負い、凄い勢いで走ったとか。背中の熱が通らないように背子にも気を配って二本の杉板を使っていたとか、いずれにせよ時間が勝負の仕事だったのでしょうね。

 北前船での塩街道の役目では、逆に京都の文物が地方に流れた大きな役割りもあって、行くだけではなく、帰りの背子も重要な仕事をしていたように思われてなりませぬ。例えば山形の紅花の商いでは、仕事が大きいので、琵琶湖から疎水などへ、そこから京都に入った船のルートが一般的でしたが、山形には多くの京都の古い文物が残っております。西村山郡の谷地と言うところは紅花商人が多くいた地域ですが、今でも当時の豪商のお宅には、京都発の享保雛などが多く現存しています。帰りの船では古着や珍しい文物を運んだ形跡が多数存在しているのです。そして豪商の自宅の神社には京都の豪商とか近江商人とかが、寄進した石灯篭も数が多いんですよ。

 又京都では「芋棒」が有名ですが、その芋棒の流れを組む食べ物の存在も見逃せません。全国の有名な港の傍や近場の街には必ず似たような食べ物があります。山形では最上川河畔で、秋になると、殆どの山形の人達がする「芋煮会」があるのですが、これも芋棒の流れを組んでいると言われています。但し棒鱈ではなく、山形特産の牛肉になるのですが(ちなみに豚肉より牛肉の方がお安いんです)。こうして丹念に調べて行きますと、色々と面白いことが数限りなくあるものだなぁと。

 イワカガミが群生している鯖街道とは、何ともロマンを感じさせますね!ところで常照皇寺は未だに櫻情報は一切教えて貰えません。咲いているかどうか、来てみたらどうですかと、いつも凄いつれない返事ですから、勢い京北町の観光課か商工課だけを当てにすることになります。櫻と言う字は「ニカイノオンナハキニカカル」と書くのだ重要なことなのだと、亡き主人からきつく教えられています。

 お住まいの天然自然の中に身を置いたら、生老病死の悩みもどこかに行ってしまいそうで、何ともmfujinoさまが羨ましい限りです。一本千円前後の丹波産の安いワインは、あの『料亭菊乃井』さんの看板ワインになっておりまして、ブルゴーニュ産ですかと聞いて、村田吉弘さんから大笑いされたことがありました。改めて京都は文化の発信基地だと言うこと、今でも強く感じられてなりませぬ。
「ニカイノオンナハキニカカル」 (mfujino)
2007-05-31 21:23:49
硯水亭さまのコメントはいろんな視点が入っていて楽しいですね.
櫻とは「ニカイノオンナハキニカカル」.う~ん、面白い.でももう少しそのうんちくを聞きたい気もします.どこへ行けばいいでしょうか?ブログに書かれていますか?
もう一つ、「芋煮会」.関西ではあまりポピュラーでないですね.私自身大阪のGOGO会で覚えました.秋や冬、ハイキングの後川原で食べた芋煮はめっちゃ美味かったのを思い出します.この丹波へ帰って同級生などに「芋煮」やろうよ、と言っても通じませんでした.それではという訳で一昨年の冬我が家でやったのですが具が豊富すぎてどうも雰囲気が違う.昨年12月には出来るだけシンプルに仕上げました.これは12月13日に書きました.一度山形の川原でほんまもんの芋煮を食したいものです.
山形と言えば「ひっぱりうどん」.昔大阪時代小さい会社で仕えていた社長と一杯やっていたのですが、その店は夜もうどんが食べれました.「しっぱりうどん」の食べ方を教えてやる、と社長がうどんに納豆を入れて食べました.その事を思い出し「しっぱりうどん」で調べたのですが、どうもこれは「ひっぱりうどん」が正しいようですね.このことは納豆関連でまた書きたいテーマの一つであります.時間がとれたら行ってみたいのが山形であります.
京は遠ても十八里 (mfujino)
2007-05-31 21:24:50
道草様、我が少年時代、ここ京北で秋のお祭りやお祝い事のあるときのご馳走は「鯖寿司」であったこと(今もその風習は受け継がれていますが、、)、それと行商のおばさんから買った「へしこ」を食べたこと、等が鯖街道沿線であった事を実感させてくれますね.
「京は遠ても十八里」とは、京都までは遠いけれどまあ十八里も歩けばいけるよ、といういみなのでしょうか?今70kmを歩けというのはかなりの健脚でないと遠いイメージでしょうが、歩いて旅をする時代の人にとってはそう遠い距離でもなかったのでしょうね.
上に書きました小畑 登先生は、その五「高浜街道をゆく」を、
>京見峠を出て、周山街道を若丹国境の棚野坂まで十三里、棚野坂から高浜まで若狭の山道を
>五里一二町十九間、〆て十八里余.昔、若狭では「京は遠ても十八里」と、京まで遠いが恐
>れるなと云い聞かせ、どにかくよく歩いたものである.一方では、京までの遠い道のりの苦
>難から、「きょうとい」とか「きょとい」といい、恐ろしいこと、怖いことを意味する方言
>として若狭に残っている.
と記して締めくくっておられます.この方言、興味ありますね.

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