史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

 ご意見・ご感想・ご質問など、気軽にメッセージください!

「浦賀ドック」周辺めぐり

2013年10月12日 | 幕末~明治史跡めぐり
10月12日(土)
先週(6日)は「日米親善ベース歴史ツアー」に参加して明治時代に造られたドライドックを見て来たけど、今週は「浦賀ドック」を見学しに行って来ました。
浦賀にはドックが2ヶ所あって「川間ドック」は事前予約制のツアーがあったんだけど応募せず、事前応募の要らない「浦賀ドック」の方のみを見学するつもりでいたんだけど…「川間ドック」は調べたらいつでも自由に見れるみたいなんで、後で個人で行ってみることにしました。
「浦賀ドック」の見学は11時からなんで10~15分前に着けばいいんだけど、今日は昨晩からの夜勤+残業で終了が8時半だったんで…家に帰って作業着を洗濯するために置いて、30分後くらいに下の妹の家(浦賀)に向かいました。
妹夫婦の家は浦賀駅から近いんで、もし現地にバイクを停める場所が無い場合を考えてバイクを置かせておいてもらうのと充電のために寄ったワケです。
まだうちの両親も上がったことのない新居(8月末に越したばかり)に先にオジャマしちゃいました。

10時半ごろKAZUMAを病院に連れて行くと言うんで、妹と甥姪と浦賀駅まで一緒に歩いて行きました。

駅の目の前が「住友重機械工業」の敷地です。

浦賀に所縁のある方々やエピソードのパネル?が外壁に数枚あります。

正門?から入り、事務所?みたいなところで番号だけ貰って参加OKです。

そこにはいくつか展示品がありました。
ドックに使用されているレンガや…

工具…などです。


けっこう参加者多いんだね…俺の前に30人弱の第1便が出たからね。

俺は約40人弱の第2便で見学をすることになりました。

2基のクレーンがあるレンガ造りのドライドックで、レンガ造りの明治期のドックは日本に2基しか残っていないのだそうです。

このシャッター?の先が海で艦船を引き入れた後、海水を抜いて船底を露出させて補修します。

これは反対側です。

この奥にある山はこのドック辺りまで裾野があったらしいよ…それをここまで山を削るのも大変な作業だよね。

大きな錨だね…

これも大きなタイヤだ…

人と比較してもこの大きさだもん。

この左のはクレーンで、右のが支柱?です。

この支柱?とこのクレーンが一体だったとは…

平成15年(2003年)に閉鎖されるまで、30mを越す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦などの船がこの「浦賀ドック」で建造され、街はドックで働く人たちで賑わっていたそうです。



ドックから見る浦賀港です。

このポンプ?でドック内の海水を排出するみたい。

クレーン(写真右)には、製造が大正13年11月って記載されてたよ。

明治24年(1891年)中島三郎助23回忌にあたり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられ、その除幕式の席でかつて函館戦争のときの同志であった荒井郁之助(函館での海軍奉行)が「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、榎本武揚は即座に賛成して地元の有力者に働きかけ、鳳凰丸建造から約40年後の明治29年(1896年)に浦賀船渠株式会社が創設されました。

現在の社名「住友重機械工業株式会社」は昭和44年(1969年)6月に合併してからのものです。

この「咸臨丸」は…“咸臨丸フェスタ”で使用するモノかな?

食事?も販売していました。

この後、イベントが行われるみたいです。



予定通り12時ちょい前に終わり…浦賀駅近くの「亜細亜楼」という中華料理屋に行きました。
浦賀出身の同僚が薦めてくれてたんでさ…俺は「とろみラーメン」を注文しました。
同僚はサンマーメンがお勧めって言ってたけど、俺サンマーメンって食べたことが無いんでちょっと抵抗あってさ。

「とろみラーメン」は¥750です…「とろみ麺」というスープ無しのメニューもありました。(半チャーハンはサービスでした)
ピリ辛って書いてあったけど、俺にはちっとも辛くなかったな…でも美味しくてスープも全部飲んじゃったよ。
妹の旦那は浦賀出身だけど、子供の頃行ったきりみたいでさ…妹には「美味しかった」と言っておいたけど味覚は人それぞれだし、俺も通うほどか?と聞かれれば、そこまででもないかな?(…ってか、俺は滅多に外食しないから)

食事後、妹のとこにバイクを取りに戻って、バイクで再び「住友重機械工業」方面へ…

ここは「西叶神社」です。

…俺は対岸の「東叶神社」は何度か行ってるけど、初めて「西叶神社」に来ました。
ここ「西叶神社」の勾玉を「東叶神社」のお守り袋に納めて身につけていると、恋愛をはじめさまざまな良縁を結んでいただけるそうですよ。

「たまゆら~もあぐれっしぶ~」第7話でも登場しました

これは「昭洞香山君碑」で、ペリー来航時に中島三郎助と共に応待、評判に当たった人物です。

左は「福寿弁財天」です。

文政6年(1823年)創建だって…でも、崖を修復したのか古さを感じないね。

この石段を上がって行ったら小さな社がありました。

「西叶神社」は天保13年(1842年)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品です。

利兵衛は文化12年(1815年)安房国千倉の生まれで、江戸の後藤三次郎の門に学び、神社社殿の彫刻や山車、みこしを多く手掛けました。

東西の叶神社は、浦賀の港を行き来する「浦賀の渡し」で結ばれています。


それから「浦賀病院」方面へ…ここは「船番所跡」です。

目の前にはL字の「陸軍桟橋」があります…太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところです。

このボードウォークは…

「たまゆら~もあぐれっしぶ~」第7話で、最後に皆で花火を見てたところだね。



それから「燈明堂跡」に行きました。
「燈明堂」は浦賀港の西にあり、港に出入りする船にとって灯台の役目をしていました。
慶安元年(1648年)幕府の命により造られ、菜種油で灯された光は海上4海里(7.4Km)を照らしたといわれています。

これは何の碑だろう?

明治5年(1872年)に廃止されるまでの約220年間、一日も休まずに航路の安全を守ってきました。

今日は天気が良かったんで日光浴してる人がいたよ…って、もう10月半ばなんですけど。

建物は明治20年代まで残っていたといわれていますが、風雨で崩壊し石垣だけが残されていました。
昭和63年(1988年)に残った石垣の上に現在の建物が当時のままに復元されました。

けっこうキレイな砂浜だったよ。


それから「浦賀病院」方面に戻る途中にある「シティマリーナヴェラシス」というヨットハーバーに寄りました。

その中にあるのが「川間ドック」です。

(株)東京石川島造船所が大型船の建造修理のため、当時取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895年)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。

オールレンガ造りで築造されたドックは、全国を探しても明治期のものは「浦賀ドック」と「川間ドック」2基のみという大変貴重なものです。
もう今は海側のシャッター?が外されているため、ドライ(乾)ドックとしての役割を果たすことができなくなっています…


最後に「為朝神社」に行ってみました。

祭神は源為朝…源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。
大河ドラマ「平清盛」でも頼朝(岡田将生)の父・義朝(玉木宏)の弟(八男)として猛将ぶりが描かれていました。
為朝はその強弓を恐れられ、腕の筋を切られて大島に流されて流人生活の果て許されることなく没しました。
…で、浦賀と何の関係があるの?っていうと寛政12年(1800年)浜町(西浦賀4丁目)の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ地蔵堂に安置し祈願をすると、その功が多かったそうで鎮西八郎為朝の像であったといわれています。
この地に伝えられている「虎踊り」は浦賀奉行所の開設にあたって伊豆下田から伝えられたもので、 県の民俗文化財に指定されているそうな。

この他の浦賀周辺の史跡はこちらをご参照くださいな。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日米親善ベース歴史ツアー | トップ | 「たまゆら~もあぐれっしぶ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

幕末~明治史跡めぐり」カテゴリの最新記事