「メタ坊っちゃま、メジャーデビューに気をつけて」

予備軍判定のメタ坊が、ずんぐりお腹をさすりつつ、カロリーの消費と補充のため、散歩の閑人します。

大和・深見の史跡と下鶴間探訪ウォーク

2018年10月31日 | ★メタ坊タウンニュース

今回、境川を越えて歩いてみてつくづく考えました。
横須賀で生まれ育ったころは、
実家と親戚の家がほぼ横須賀市内だったので、
その家を中心に半径XXキロの範囲内に遊ぶ場所が限られていました。
中学生になると「鎌倉幕府」に興味を持ち、
鎌倉鶴岡八幡宮から見える範囲をくまなく歩くことを高校卒業まで繰り返します。
大学浪人中は、東京の予備校通いと近隣の大学キャンパスをウロウロ。
横浜の会社に就職すると、事業所や仕事の内容が変わるたび、
その辺りをいろいろと探りまわることを趣味にし始めました。
若くて体も無理がきくころになると、
興味の赴くまま、日本全国あちらこちらと飛んでいきました。

今回のウォーキングで、永らく瀬谷に住んでいながら、
境川の向こう側をそれほど詳しく知らなかったことに気づかされました。

見出し写真の「坊之窪石仏群」は道路拡張により、
沿道の石塔石仏を移転集合させたもの。
横浜市では「コンプライアンス」が声高に叫ばれて以来、
市有地にある石塔石仏は、文化財ではなく宗教物として、
政教分離の観点から移設を進めているそうです。
その結果、移転先がわからなくなったものが多数あるうえに、
更地となったところは土地売却されています。
石塔石仏がなぜそこに置かれたのか誰も知りませんからね。

下写真は「天竺坂」の標柱。


14世紀末ごろにあったのではないかとされる「深見城」のあと。
うっそうとした林の中に、空堀のあとがいくつか続いています。


境川の東側(瀬谷区)は、鎌倉上の道があり、
幾度かの戦乱を繰り広げたところなので、
西側(大和市)が戦乱に巻き込まれないための城を築いたのでしょうか?
境川の河川敷だったところと河岸段丘の落差は見上げるほどですからね。


それから北方に向かうと、下鶴間諏訪神社にたどりつきます。


思いのほか境内地の広い大きな神社で、
社務所もあり、氏子持ち回りで詰めていて、週末のみ神主さんが出張してくるとのことでした。
管理元は同じ下鶴間の浅間神社(鶴間神社)なので、信仰心厚い土地柄といえます。


北へさらに行くと、下鶴間宿があった矢倉沢往還(昔の国道246号線)へ出ます。
渡辺崋山が立ち寄った当時は寂しい宿場町だったようですが、
幕末から明治にかけて、八王子街道と交差する下鶴間宿は賑わいをみせていたようです。


その一時期、鶴林寺には小学校の前身・鶴鳴学舎がありました。


矢倉沢往還と八王子街道の交差する角に、下鶴間ふるさと館(入館無料)があります。


宿場町時代唯一の商家建築・旧小倉家住宅を復元保存したものです。


築年代不詳なのですが、母屋の座敷床板に、
「豆州賀茂郡仁科庄 石田利三良」「安政三年」の文字や、
「黒船」の絵が落書されていたことから、そのあたりではないかと推測されます。


ほかに、胞衣(えな)皿が出土したとか、郵便局だったので郵便保護銃があったりとか、
コンパクトな展示施設ですが、宿場町の一商家の暮らしが垣間見れる面白さがあります。


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