柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

2007-08-31 08:42:33 | Weblog
昨日、(結果として)妊婦たらい回し死産事件について、県立医大の責任だ、手術中だったというがそれなら詳細を公表したまえと書きました。昨日書き忘れましたが、奈良から大阪北部の高槻まで運んだなんて言うと、えらく遠いこと(県をまたいでますから)可哀想に、なんてそれだけでバイアスかかってしまいますが、距離にして40kmだそうで、こんな搬送は当地でも日常です。隣町の総合病院へ、なんて事態はどこでもあることです。まずこれを言っておいて。新聞にその詳細が載ってます。別の妊婦の処置していたそうです。こういう事実ははっきり言うべきでしょう、私のような外野からの非難には正当に反論して貰いたいと思います。日経の記事によると、当該患者受け容れ要請(午前二時五十五分)の一分前に別の妊婦を受け容れ、もう一人の当直医は手術後の妊婦の対応に手が離せなかった、そしてその30分後には別の妊婦が破水して入院(きっとこの病院のかかりつけさんだったんでしょう)、5時半には分娩後の大量出血患者を受け容れたそうです。その間、三回にわたる救急隊からの要請を断った、そうです。いかがですか。ふうむ、仕方のないことか。ですよね。こんなに重症緊急例が重なったのでは、とても新たに受け容れられません。当直医が二人いるだけで体制としては十分なところ、その二人がフル稼働してる状況、どういう優先順になるか、おのずと分かっていただけましょう。記事には「女性を搬送した救急隊員の意図がうまく伝わらなかったため、病院側に緊急事態との認識がないなど、救急連絡の不手際も露呈した」とあります。いや、ここに原因を持っていたのでは、「何でも重症」化します。救急隊はどこかに運び込むのが仕事です。意思疎通(意図)なんて言い出すと、救急隊員が重症度を判断することになり、医療知識云々、ひいては越権云々の話になっていきます。いえ、確かに診ないと分かりませんし、対応しないと重症かどうかは分かりません。ですから、救急隊員に重症度を判断させろというのは無理な話です、意識がないとか呼吸がないとかそういう事態を除けば。息せき切って運んで来たのは良いが、何分か後にケロリとして歩いて帰っていく、なんてケースも多いのですから。結果論じゃないか、と言われますか?そうです、医療は結果でだけで判断されます。経過などは誰も聞いてくれません。だから一律要請は全部受け容れるべきだ、軽症はそれはそれでいいことじゃないか、とお考えですか。この夜の県立医大の様子で承知いただけましょうが、本当に(ここが問題ですが)手が一杯状態があるわけです。じゃぁ、県立医大だけでなくあと一つ二つ同等の医療機関を用意しろ、それが医療行政だろう、という批判に繋がりますか、でもこれはまた別問題ですね。事情は十分に理解するが、無理を押してでもまず受け容れてくれ、結果がどうこうではない。それが公立病院の務めだ。間(あいだ)を採ればこうなりますか。次は医者の心意気です。結果がどうこうではない、なんて言うと、じゃぁ死んでも文句言わないな、なんて極端を言う、悪くなっても訴えたりしないだろうななんて逆に脅迫するような横着も出てくる、というか医師会とすればきっと「人権問題」としてそこばかりうるさく言うのでしょう、運ばれる方はたまったもんじゃないですね、こんな危ない奴らに診てもらうのかなんて。ホラー映画ばりです。偶々運が悪かったですね、で済みませんか。普段はこんなんじゃないんですよ、と。医療行政の足は極めて遅いです。救急病院をあと一つ二つなんて全くの空念仏です。だからそこにいる医者の心意気に全面的に依拠依存するというのが真実なのです。入れ物(建物)の大小ではないです、機器の備不備ではないです、その日その時間にそこにいるその医者の心意気こそがあなたの命を左右するというのが真実です。誤解があってはなりません強調しますが、今次の奈良医大の当直医の心意気が足りなかったのではありません、記事読む限りでは彼らは十分に働いています、立派なことです。当該患者の運が悪かった、その時間その場所でそういう事態に陥った運の悪さ。それでは済みませんか。いかがでしょうか。
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2 コメント

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いいかげん (通りすがり・・・)
2007-09-01 00:51:15
 竹やりでB29を落とせという論調はあきているのですが・・・
 根本的に「産科医」不足をそのままに放置している政府のせいだという認識がマスコミにも国民にもないですね。残念です・・・
通りすがり様へ (書翰子)
2007-09-02 09:32:11
御意見有難うございます。ない袖をなんとかどうにかして振ってくれという論です。なければ付けろができません。ない袖を火が噴くまで振ってくれという無茶です。私の親父の世代の開業産婦人科医の夢のような話を聞くにつけ、社会の成熟の光と影を思わざるを得ません。が、そこをぼやいても何も起こりません、時代は戻りませんから。その時代の知識技術に沿った常識があるわけです。要求のレベルがあるわけです。現代を基準に考えてアバウトな時代にはアバウトな要求です、諦めをその裏にちゃんとひっつけています。命を軽々しく考えるというのではなくて、助からない者は助からないのだという厳粛な諦めです。一見命を軽視するように見えますが、実は深いあきらめがある。7歳になるまでは子は神のものだなんて認識だったのです、つまり早死にしたりどこかにいなくなったりするのを人は涙しながら諦めていたのです(それを後世の者達はあと智恵であれこれ解説します、感染症などにより乳幼児死亡率が非常に高かったから平均寿命が低かったとか、神隠しとか天狗が連れて行ったとか称して諦めていた、そう認識することによって社会の秩序平穏が保たれていたとやら、乳幼児期の早死の多さは多産で補っていたのだとか。これはひいては現在の高齢少子化社会の原因論にも繋がります、人が死なないから子供を産まないのだと)。現在は救命至上です、人の命に優る価値はないという前提です、それは医療技術の進歩に沿うものです。しょうがないじゃないか、がなくなったのです。みんな大都会の最新機器の揃った大病院のすぐ側に暮らしているような錯覚をしているのです。格差ですか。格差なんてなくなるはずがないじゃないですか。田舎と都会の差は歴然です。どこもかしこもインフラが整っている筈がないじゃないですか。要求と諦め。そろそろ後者に傾いて行かねばと思うのです。アンチエイジングに象徴される無茶をこそ排除せねばならぬのではないでしょうか。通りすがり様が医療体制、医療行政について言われるのと同じ重さで、次は受療者側の諦めじゃないかと思っています。その地域に住んでいる以上、その地域の体制を超えるものは享受できないという真実です。それを諦めと表現しています。ここに住んでいる以上、少々の不備は仕方ないわね、という思いです。鄙の地に住む者の覚悟とでも言いましょうか。いかがでしょうか。

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