柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

情論

2018-07-29 11:46:41 | Weblog
オウムの死刑囚が13人とも刑執行されて、TVはトーン落として事実の報道だけに抑える傾向ですが、新聞は社説で囲み記事で特別寄稿で批判します。朝日系の新聞です。麻原彰晃の死刑執行のTVテロップは驚いたことでしたし、同時に7人もやったと聞いて女法相の決断(産経新聞は胆力と評価してましたが)にも感じ入りました。これで事故の真相は永遠に解明されなくなったとの批判も当初は見られましたが、その後は専ら死刑そのものに対する非難です。オウム事件に対するものではなくて死刑制度への批判にすり替えます。今朝のTBSサンデーモーニングでもそうでした。そこでよく出てる青木某がわざわざ黒板に書いて強調してましたが死刑制度の残ってるのは先進国(なんて言い方は平気でします、差別大嫌いなはずの連中なのに)は日本とアメリカだけだ、遅れてる!と。彼は先に中国新聞(東京新聞系)にも同内容を寄稿してました。麻原彰晃の悪事はどうなったの?同じ場で大阪のどこかの大学の女准教授、大阪おばちゃん党とかを立ち上げてるデブさんは、わずか一カ月のうちに13人も死刑執行するような国に住んでるんだなぁという感想だったと嘆息でした。まぁよくぞそこまで悪意に満ちて吐き捨てられることよと呆れましたが。今日の毎日にはあの村上春樹が寄稿してます、見出しは 事件終わっていない 胸の中の鈍いおもり とあり事件のことを書いているのかと思いきや、死刑制度への批判でした。ノーベル賞をとるとる詐欺やってる人ですが、あの執行を「十三人の集団処刑」と書き、「人が人を殺すのと、体制=制度が人を殺すのでは、その意味あいがは根本的に異なって」いる、遺族感情というのは難しい問題だと振っておいて「遺族感情で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正なことだろうか」と言い、文の終わり近くで「今回の死刑執行によって、オウム関連の事件が終結したわけではない」と一般論的に書き出して「これを好機ととらえて死刑という制度をより恒常的なものにしようという思惑があったとしたら」それは間違いであり許されないと言います。ふうむ。この程度の認識かぁとがっかりする気がしました。この人の本を読んだことはないのですが真っ左の人なんですね。あの事件の重要性はどう思ってるのか、被害者感情はじめとして裁判や行政は世間に向いてなければならぬことでしょうにね。ノーベル賞(候補)作者もこんなもんか、という感想です。もう一人、こちらは名だたる左翼さんですが、辺見庸が今朝の中国新聞に寄稿してます。こちらはもっと感情的に非難します。「なぜ殺すのか。災害でたくさんなくなっているのに、どうしてさらに殺すのか」「ひとはひとを、組織または国家の名のもとに、なぜ平気で殺すことができるのか」「この国ではいまや、死刑執行が祝祭のようになってきてはいないか」「死刑囚の悪行のみをかたり、死刑の残虐性とその是非を論じようとしないメディア」「サッカーの試合後、日本人のサポーターたちがみんなでゴミ拾いをしたという公徳心の高さと、絞首刑の国民的受容にはどのような道徳的なバランスがたもたれているのか」と来ます。???でしょう?ついていけない感じです。こんな考え方が左巻きさん達なのです。是非ご一読を。やれやれ、です。
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