柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

光陰

2011-01-01 10:00:46 | Weblog
新年明けましておめでとうございます。皆さまに於かれましては今年が良い年でありますようにお祈りいたします。拙文を書きならべまして1700回の後半に至っております、四年と半分を過ぎて、進歩とか改善とかと如何に無縁であるかと非才さにはわれながら呆れることですが、読んで下さる皆さまを思えばこそのモチベーション、思ったままに言いたいように書き連ねて居る以上、これに勝るドライブ源はございません。今後ともマージーボックスともどもに、このブログにご愛顧賜りますようお願いいたします。
 年の初めと言っても、年が改まったと言っても、昨日の次にいつもと同じように明けた今日ですから、見渡したところで何も変わらないわけです。一直線のイメージ、矢の如き光陰のイメージ、ただ通り過ぎるだけで二度と戻らない時間と、四季のめぐりに象徴される繰り返される時間と。昨日と違う今日なのですが、また正月が巡ってきているわけです。人はその二種類の時間を意識せずにその場その場で上手に使い分けているのです。この辺りに「時間」概念の機微を感じるわけです。唯物的に、細かく砕いていけば、繰り返される時間といっても日が明け暮れるのは地球の自転、季節の巡りはその公転に従っているだけのこと、それは時間云々の問題ではないのだと言えるのでしょう。しかし自分を動かざるモノ、定点に据えてみれば、周りが動いている、季節は巡る、陽は沈みまた昇る、子は育つ、親は死んでいく。また正月が来た、朝の来ない夜はない、親の通った道をなぞるように、子が自分の後を追ってくる。世の中は繰り返しなのだ。人が役者でいる限り、歴史は繰り返されるのだ。天動説か地動説かという喩でもあるのでしょうか。自分が変化しているのか、周りが変化しているのか。もちろん自分も周りの森羅万象と全く同じ時間の流れに乗っているのです。自転している、公転している地球の上に乗っているのです、同じ動きをしているのです。時間が繰り返されるのではなく、環境が変化していくのである、繰り返す変化をしているのである。だから「繰り返される時間」という表現は実は単にレトリカルに対置しているだけで、実は次元の違う感覚の併置なのだ。時間は光陰でしかないのだ。環境が、場面が、景色が繰り返されるだけなのだ。と考えを進めれば、去年と同じ正月がやってくるのではないのだ、子供が小さかった頃の正月は二度とやって来ないのだ、という一番初めの大前提に戻ってきます。繰り返されるのは舞台背景だけで、役者は常に変わっていく。これが正しい認識ですね。自分の役も一年一年変わっていくわけです。歳をとることは楽しいことではありませんか。今年もどうぞお健やかに。よろしくお付き合いください。
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