柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

度量

2008-11-03 10:23:12 | Weblog
毎日新聞に大阪橋下知事の記事です。高校の何やらの発表会の場での挨拶です。私が受けてきた教育は最悪だった、国歌を歌わされたことがない、日の丸・君が代も全く教えられなかった、結果を出しても評価されず、差がつくこともダメ、そういう教育はおかしい、国旗と国歌を認識するのは教育の本質的な部分、と。彼は39歳、大阪育ち、高校は北野高校、大阪は公立校が進学校として名を馳せていて北野高校はその雄です。公立名門高出の本人が言うのですから本当でしょう。京都が共産党、大阪が左翼の本丸、どちらも声や態度のでかい「弱者」が強いズルズルベッタンの土地柄です。低い低いところに基準を定めて有能者を潰そう、誰も彼も味噌も糞も一緒くたに腐っていましょうという方針です。国家意識なんてのが一番邪魔です。二言目には軍国主義だ皇国史観だと大声で叫んで排除して来た歴史です。そこに橋下知事噛みついたという絵柄です。さて彼はどこまでやれましょうか。その意気やよしです、彼の考え方には全面的に賛同します、どうかしっかりサポートしてやってほしいと思うのです。保守論壇のお歴々にはどんどん援護射撃をしてやって欲しいと思うのです。未だ39歳です、足を引っ張ろうと思えば容易いことなのでしょうから。安倍さん達自民党のタカ派がやろうとしていたことを一知事が挑んでます。国歌斉唱や国旗掲揚を法律に書かないと徹底できない国にまで精神的に落ちている日本です、経済危機を何とか乗り切って、左翼全体主義者の小沢を蹴散らし、麻生さんと手を携えてこの方向に変えて貰いたいと淡く熱望している私であります。ひとつ不安に思うは彼が若いということ。私が40前に何を考えていたか。観念的空想的つまり人の知識思考の受け売りでなく、自分の頭で考えられるようになって肚が据わるのは、私はもっと後でした。むろん早い遅いという話であれば、私が凡庸であり知識量も足りなかったからに他ならぬのですが、あれだけぶち上げればあれこれきっと反論されるでしょう、上手な説得も受けるでしょう、自分が未だ確立できていないときの大言は簡単に変節に繋がる危うさも秘めているのと思うです。そういう不安は確かにあります。彼の今の考えが自分の肚から出ているものであることを願うことです。
 「沖縄ノート」に係る大江岩波訴訟事件、大阪高裁でも原告敗訴です。原告とはこの本によって事実に異なる記載であらぬ嫌疑を掛けられたと訴える日本軍の元隊長で、被告は作者大江健三郎と出版元の岩波、出版差し止めと名誉毀損に対する損害賠償請求訴訟です。私達外野が知りたいのは興味があるのは、事実や如何にであり、それはつまり裁判官がどう判断するのか、です。名誉毀損があったかどうかです。判決文読むと、訴状からは当然のことですが、出版差し止めはできないことが行文涼やかに縷々述べられます、きっと裁判官はこっちの理屈に自信があるんでしょう、えらく丁寧に理論的です(すでに前例があるのかもしれませんが)。もう一つの名誉毀損の方、こっちはぴしゃりとやってます、軍の関与がないはずがない、あなた方の出してきた証言(自決を強要などしていない)はとうてい信じられないとやってます。おお、こっちはきついことです。紙上の文面追いながら思いました、えらく断定調でしたから。60年以上前の話です、証言できる人達の多くが死んでいき、しかもあの時ああ言った言わぬの争いです。今の私達には人ごととして想像はできても、とても我が事として実感できない場面、生きるか死ぬかの選択です、一つの言葉の受け取り方も平時のものとは異なりましょうし、軍人と民間人という立場の違いは言葉の重さの違いです。裁判官こそがそういう現代現在との違いを十分に加味配慮せねばなりませぬ。果たしてこの裁判官にそれだけの度量が備わっていたかどうか。おそらく原告の元隊長さん、余命幾許もない事でしょう。軍の関与。軍の命令という直截な表現でなく関与と言うは大きく範囲を拡げたことで、そうなると戦争状態下に軍服着た軍人が民間人に何かを言えば全ては軍の関与ありになります。そういうふうに解決しようとの意図は分かります。実際に多くの民間人が自裁したのです、肉親を手にかけたのです。が、そんなつもりはなかった、そんな命令したのではないという逃げ口上は聞かぬ、原告に有利な証言も信じられないと斬って捨てる態です。うむ、もう少し言い方がないかなぁと思いました。曾野綾子のルポルタージュ本や、大江健三郎は自ら取材したのではなく悪名高い沖縄の左翼紙の記事を鵜呑みにして書いたという事実や新たな証言を元に訴えるのでしょうが、原告側がどこを争点に指定したかはわかりませんが、本当に言った言わぬを争っていたのであるなら、持って行き方(裁判運営)の拙劣さですか。状況から諄々と説くという戦術があったのでしょうか。個人でなく軍がどうのこうのと話が大きくなっているなら尚のことです。となると裁判官も例えば、百歩譲って原告がそういう意図(自決せよ)で言ったのでなかったにせよ、あの場面で軍服着たものから手榴弾を渡されたら民間人はどう考えるか、そこに思いが至らなかったか。死んではならぬと言われても事実目の前には手榴弾がある、どう考えるが常識的か。などと説けばいいのではないのでしょうかね。もちろん裁判の手続きはわかりません。原告被告が争うこと以外のことをあれこれ言うのはルールに外れるのかもしれません。しかし60年以上前の事例を記憶だけを頼りに裁こうというのです。グレーにならざるを得ないところはグレーらしく常識的に判断すればいいことじゃないんでしょうか。60年平時に慣れた頭で戦時の火急時を理解できるはずもないのですから。やはり裁判官の度量ですか。「自販機」裁判官ではどうにもなりません。とくにこの例のように歴史を裁く色合いがついている事例の場合は特にでしょう。上告ですね。相応の裁判官が現れるまで行かねばなりますまい。原告には時間が余っていませんから。
 
コメント
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