千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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千葉市の戦争遺跡2(陸軍気球連隊と陸軍歩兵学校)

2007-01-13 | 千葉市の戦争遺跡
1.風船爆弾の「ふ号作戦」をおこなった陸軍気球連隊

陸軍気球連隊は千葉市稲毛区作草部の台地上にあったが、今もその格納庫跡が残り、川光倉庫という民間会社の現役の米穀倉庫として再利用されている。

気球は欧米においも盛んに研究が行われたが、日本は古くから軍事目的に利用しようとしていた。気球の軍事利用の発想は西南戦争に遡り、後に海軍機関学校の校長となった麻生武平らによって、1877年(明治10年)東京築地において初めて実験がされた。
日本陸軍の本格的な気球利用は、1904年(明治37年)年6月、臨時気球隊が編成され、日露戦争に従軍(旅順攻囲戦)したのを嚆矢とする。以来、陸軍は航空機で気球を重視する傾向があり、海軍とは好対照であった。翌1905年(明治38年)に、東京中野の電信教導大隊内に気球班が出来、1907年(明治40年)10月気球班が発展的に廃止、改組され陸軍気球隊となった。さらに1909年(明治42年)航空技術促進のため、勅令により臨時軍用気球研究会官制が発布され、帝国陸海軍合同の「臨時軍用気球研究会」が発足した。その後気球隊は所沢に移り、さらに1927年(昭和2年)に現在地に移ったが、1936年(昭和11年)平時編成全面改正で陸軍気球連隊となり、航空科から砲兵科に移管された。
なお、作草部における格納庫は当初第一格納庫一棟のみであったが、1929年(昭和4年)にさらに二棟(新しく作られた第二格納庫が現在地に現存する方である)に増築された。

かつての気球格納庫であった川光倉庫の米穀倉庫は、大きな蒲鉾屋根の建物で、スレート屋根と分厚いコンクリートで出来ており、倉庫の開口部は上下可動式となっている。屋根の最上部が、橋の欄干にあるような宝珠の頭のような形で、天井が低くなる両端のデッドスペースは、仕切を加えられて兵の宿泊室となった。ゆえに、格納庫側面並ぶ三角形の窓は明り取り用の出窓であったものを戦後払下げされた後に塞いだものである。
往時は、もう一棟、第一格納庫が道路を隔てた向い側の現在公務員宿舎となっている場所にも、格納庫があったが、空襲を受けて破壊された。その残欠は戦後解体され、三角屋根の中央部分が二段となっているのをただの三角屋根に改造しながら千葉公園の中の体育館として移築、改装されている。

<作草部公園付近の住宅地から見た格納庫跡>


気球連隊のあった場所は、現在の川光倉庫敷地とその南東の幼稚園、唱題寺という寺院および倉庫西側の公務員宿舎がある一帯までで、ご近所の方にお聞きしたところ、寺院のさらに南東にある作草部神社はもともと現在地にあり、隣接する公園(元は葦などが茂っていた荒地)も軍用地としては使われていないそうである。川光倉庫と幼稚園、寺院の東側、南側の境界には塀がめぐっているが、一部なくなっているものの、当時のものがよく残っている。

<格納庫を前面から見たところ>


<格納庫を横から見たところ>


また、境界標石が、倉庫の北の道を挟んだ低地に1つ、埋没していて分かり難いが、寺院周辺に1つ以上はある。倉庫北の低地にあるものは、「陸軍用地」の文字が一部読み取ることができるが、寺院にあるものは地表面に出ている部分がすくなすぎ、判読不能である。

<北側低地の境界標石>


日中戦争当時、気球連隊は独立気球第一、第二、第三中隊を編成し、戦線に出動。情報収集、射撃観測を任務とした。ノホンハン事件でも臨時独立気球中隊を編成して派遣したが、制空権をソ連に握られ、一部気球は破壊され、戦死者も出ている。太平洋戦争では独立気球第一中隊を編成・派遣し、マレー作戦、第二次バターン、コレヒドール島攻略戦に参加、重砲兵部隊の砲撃に協力した。
しかし、気球連隊が前面に出た活動はここまでで、連合軍に制空権が握られていくなか、気球連隊の出番は失われていった。

<残っている気球連隊の塀>


そこで、起死回生の奇想天外な作戦として考え出されたのは、風船爆弾で偏西風を利用して米国本土を爆撃する「ふ号作戦」、いわゆる風船爆弾攻撃である。風船の直径は約10メートル、楮を原料とした和紙をコンニャク糊で幾層にも貼り合わせて気密性を保ち、水素ガスを詰めたものであった。また風船の強度を増すために、コンニャク糊の上からは苛性ソーダが塗られた。風船の下のゴンドラには、爆弾と自動高度調整装置が装填された。この風船爆弾の風船を満球試験といって、ガスを満タンに充填した状態で、水素ガスが漏れていないか確認する必要があったが、そのためには天井の高い建物を利用せねばならず、東京では日劇や東京宝塚劇場、浅草国際劇場などが使われた。その風船爆弾の製造には、東京、大阪、京都といった都市部の女学生が動員された。

1944年(昭和19年)9月、陸軍気球連隊は参謀総長隷下に入り、風船爆弾攻撃命令を受領、福島県いわき市勿来、茨城県北茨城市大津、千葉県一宮町に展開。その三ヶ所から1944年(昭和19年)11月から放球開始され、合計約9,300個の風船爆弾が打ち上げられた。翌1945年(昭和20年)4月上旬にはジェット気流が吹きやみ、水素ガスの補給も儘ならず、作戦中止となったが、米国本土にたどり着いた300個程度のうち、山火事を起こしたものがいくつかあったのに留まった。その山火事で送電線が断線し、原子爆弾のためのプルトニウム製造が一時停止したとか話があるが、大きな影響はなかった。米軍は風船爆弾に細菌兵器が搭載されるのを恐れたが、実際には搭載されなかった。
しかし、人的被害がでなかったかというと、そうではない。作戦中止後の1945年(昭和20年)5月に、オレゴン州の森林公園で、この風船爆弾が破裂し、ピクニックに来ていた子供5人と牧師夫人の6人がなくなるという非戦闘員を巻き込んだ事故が起きている。

多くの人員を動員した「ふ号作戦」は、米国本土でのいくつかの山火事を起こしただけで、全く失敗に終わり、非戦闘員6人の死亡事故を引き起こした悪名のみを残した。

なお、空襲による破壊を免れた第二格納庫は、戦後しばらく学校として利用された時期もあったが、現在は前述のように倉庫として平和利用されている。

2.陸軍歩兵学校

陸軍歩兵学校は、現在の千葉都市モノレール天台駅に近い、作草部公園一帯にあった。ちょうど、轟町の鉄道第一連隊と作草部の気球連隊に挟まれた場所にある。
陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)に東京にあった陸軍戸山学校の戦術科が拡充に伴い独立し、当地で歩兵学校として独立したものである。ここでは、歩兵の運用に関する戦術研究がなされた。

<「平和の礎」の石碑>


現在、作草部公園のなかに、「平和の礎」という石碑があるほか、公園をとりまく土塁、土塁の途中にある門跡がわずかに当時の名残りをとどめている。
石碑には、
「陸軍歩兵学校は大正元年この地に創立され以来三十有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法及研究とその普及に任じ軍練成上きわめて重要な使命を遂行した
この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる戦果は本校の努力に負うところまことに多大であり云々」とあるが、かくかくたる戦果がアジア民衆にもたらした被害と裏腹であることは言を待たない。

<歩兵学校の門跡>