広島県庄原市東城町で300年も続いている行事「お通り」。武者や代官や殿や姫や長刀をもった女中や弓を持った家臣などが「したにーぃ、したにーぃ」の掛け声にあわせ東城の町を練り歩く大名行列を見に行きました。よそで見られないのがこの写真の母衣(ほろ)行列 。母衣(ほろ)とは平安時代末期に武者が鎧の背につけた矢よけの布の武具でその後籠が加わり江戸時代には装飾がつくようになりました。椿の花飾りやその上の武者人形が華やかです。最後通る華童子(はなわらべ)の子供達もかわいい。備後東城の奥深い城下町の風格に触れた1日でした。
今年みよし運動公園に室内4面野外8面のテニスコートが出来た。そのイベント行事に1995年にウインブルドンベスト8まで日本の男子選手で上り詰めた松岡修三プロテニスプレーヤーがやってきた。熱い思いをボールに人に伝える彼の姿をまじかに見れたのしかった。子供と大人各80人に玉を出し1時から4時まで練習、片足でボールを打ち腰の回転を使い強打する練習や前で玉を捕らえる、相手ボールに支配されないで前に行く気持など初心者へのアドバイスが行われた。すべての事を前向きにとらえ、何が必要か、なにが一番大切か、何が一番正しいのか常に強い気持であらゆる仕事に挑戦しまた反省しながら前進していく彼の姿がそこにあった。
松岡修三のトークショーの写真
松岡修三のトークショーの写真
先の右側の写真に見えた二番目の鳥居方向を門の方から反対にみたのがこの写真である。右手に4本スギやモミの並木が残ったがその先はかなり明るく台風が長年保たれた巨樹をなぎ倒したことがわかる。以前は参道には草がまばらに茂っていたが今回倒木した樹木を切断し搬出した後、道が綺麗になったようだ。まだ直径1.8mぐらいの切り株が参道脇に転がっている。
広島県庄原市高野町南にある八幡神社はその参道が500メートルちかくあり広島県でも神社の参道の長さにおいて最大であろう。直径64cm以上の樹木が50本以上もあり参道は暗い森のようであったが、平成16年10月20日の台風23号の風によりかなりの大木が倒壊し明るくなってしまって残念だ。
最大40メートル以上の風があまりこない北から吹いた為と考えられる。こんなことはおそらく100年に1度あるかないかであったろう。しかし1321年蔀山城主山内首藤通資(やまのうちすどうみちすけ)が植樹したと伝えられる胸高幹囲5.02m,4.81mのモミ木は残った。
左の写真が大鬼谷オートキャンプ場へいく道から左にはいった最初の鳥居で宮川をわたって二番目の鳥居へ向かう。右の写真は二番目の鳥居とその奥に小さく門の屋根が中心にみえる。さらに奥に拝殿本殿があるがこの写真ではわからない。
最大40メートル以上の風があまりこない北から吹いた為と考えられる。こんなことはおそらく100年に1度あるかないかであったろう。しかし1321年蔀山城主山内首藤通資(やまのうちすどうみちすけ)が植樹したと伝えられる胸高幹囲5.02m,4.81mのモミ木は残った。
左の写真が大鬼谷オートキャンプ場へいく道から左にはいった最初の鳥居で宮川をわたって二番目の鳥居へ向かう。右の写真は二番目の鳥居とその奥に小さく門の屋根が中心にみえる。さらに奥に拝殿本殿があるがこの写真ではわからない。
江の川の支流神野瀬川の中流部に神之瀬峡がある。上流に高暮ダムがありかっての流れはなくなっているが巨礫の間を水が流れていく様を見るのは気持がいい。ここは広島県の自然環境保全地域にも指定されている。1石1木1草の持ち出しは禁止されているので写真だけ撮って帰る。道路は道幅が狭く崖も急峻。今年の梅雨の大雨で道路の一部がえぐられたりがけ崩れなどで今は途中までしかいけない。中ほどのキャンプ場あたりに車を止め河原を散策した。大雨のせいで砂礫が洗われていつもより綺麗だった。
江の川流域最大の都市三次市。西城川と江の川が出合う場所で花火大会が毎年催されている。打ち上げ本数18000発は中国四国地域最大と年々盛り上がってきている。河原の堤防沿いの道は露天の屋台が並び午後4時ごろには土手の最前列はほとんど埋まっている。はやめにいってゆっくり夕日が落ちていく様を見るのもの普段とちがう時間の過ごし方で楽しい。
かつて木地師がすんでいたのであろうか そんな名前の川が江の川の上流神野瀬川の支流にある。水源上流の川であるが写真の通りなだらかな流れをもつ。川の両脇は落葉広葉樹の山に覆われている。人工的な護岸は入り口の砂防ダムを除けばなく自然環境が保全されている。とても散歩に適しているので時々訪れる川だ。上流に人家はなく川の水がとてもきれい。美しい蝶にも出会うことができる。道は離合が困難な一車線だが車は少ない。カーブ付近に広い所があるのでそこに車を止めて散策する。この環境がいつまでもこのままでいてほしいと願う。
今年の4月15日に広島県三次市にできた奥田元宋.小由女美術館へいったらミニコンサートをやっていました。沖田孝司(ヴィオラ) 沖田千春(ピアノ)でユモレスクなんか懐かしい思いで聴きました。郷土三次に対する思いを時々話されながらのコンサートでした。窓の外には水がはってあり向かいの山から月を楽しめる設計になっています。三次市の長土手という所にでてくる月を待つという広島県立美術館蔵の絵がコンセプトになっていて沖田さんの話では館内の電灯を消して月をみたそうです。日本で一番月が美しく見える美術館というキャッチフレーズで満月の夜は開館時間を延長(22:00まで)しているのがおもしろい。この日も満月でしたが曇りで月はでませんでした。
奥田元宋さんの絵は晩年赤い色使いが有名ですが今回私が感動したのは昭和62年に高島屋に展示された「白嶂」という雪山の絵でその白黒の筆つかいが山にいる霊のすごいエネルギを発散していた。そのディテールもまるで現代アートのような抽象的な部分も見え日本画を基盤におきながらも新しい境地をだしているように思えた。印刷物では味わえない本物を見て初めてわかるすばらしさであった。
奥田元宋さんの絵は晩年赤い色使いが有名ですが今回私が感動したのは昭和62年に高島屋に展示された「白嶂」という雪山の絵でその白黒の筆つかいが山にいる霊のすごいエネルギを発散していた。そのディテールもまるで現代アートのような抽象的な部分も見え日本画を基盤におきながらも新しい境地をだしているように思えた。印刷物では味わえない本物を見て初めてわかるすばらしさであった。
千畳閣と呼ばれる巨大な伽藍が世界文化遺産安芸の宮島、厳島神社の北側の岡にある。この建物は天井や建具がないのだが重要文化財である。豊臣秀吉が戦没者を弔うため作らせたが途中で死亡したので中途半端になってしまった。隣に唐様な庇が反り返った五重の塔がある。桜咲く塔と伽藍の対比が印象的だった。明治はじめの神仏分離令により、塔内の仏像は大願寺に移されたが元この岡にはその寺もあったようだ。古くからある寺や神社は一体の信仰域を作っていた事は日本人のご利益があればすべての神仏をあがめるという西洋からみれば不思議な信仰感を物語っている。千畳閣にはかつて厳島神社の回廊に飾ってあった絵馬が梁に掲げられている。いずれにしても数々の人々の願いを聞き入れた場所である。
岩国城
2006年04月07日 | 旅
遠い祖先の記憶をたどりやってきた
岩国城。鎌倉時代から駿河から安芸へ
そして江戸時代はここ岩国へと吉川氏
は領地を移り住んでいる。城はその
町に暮らす人にとっていまもある種の
憧れや誇りや心のよりどころとして
息づいている。
岩国城。鎌倉時代から駿河から安芸へ
そして江戸時代はここ岩国へと吉川氏
は領地を移り住んでいる。城はその
町に暮らす人にとっていまもある種の
憧れや誇りや心のよりどころとして
息づいている。
NHK大河ドラマ「功名が辻」にさそわれて
豊臣秀吉がたて山内一臣と千代が城主を
したこともある長浜城にやってきた。
琵琶湖湖畔のそばにあり船の交通には
便利な所。古風な町並みの商店も元気で
昔の楽市楽座で栄えた面影をのこしていた。
豊臣秀吉がたて山内一臣と千代が城主を
したこともある長浜城にやってきた。
琵琶湖湖畔のそばにあり船の交通には
便利な所。古風な町並みの商店も元気で
昔の楽市楽座で栄えた面影をのこしていた。
庄原市高野町の毛無山の雪の夕暮れ。
神野瀬川のほとりのサクラもじっと
冬の寒さに耐えている。雪国の冬は
重苦しい灰色の空がのしかかってくる。
雪は川岸にまるみを帯びてつもり
新しい景色をみせてくれる。
神野瀬川のほとりのサクラもじっと
冬の寒さに耐えている。雪国の冬は
重苦しい灰色の空がのしかかってくる。
雪は川岸にまるみを帯びてつもり
新しい景色をみせてくれる。
今年ははやくから沢山の雪が積もった。
久々の大雪。ここは高野と三次を結ぶ街道の
中間地点で右にいくと庄原市街方面へいく。
むかしはバスの休憩地点でもあった。
もう何年かするとここに高速道路尾道松江線
のインターができやはり中間地点の位置を
維持していくことにはかわりがない。
雪の重みはすごくこのぶんだと雪下ろしを
はやくしないと庇を折る家も多くなる。
久々の大雪。ここは高野と三次を結ぶ街道の
中間地点で右にいくと庄原市街方面へいく。
むかしはバスの休憩地点でもあった。
もう何年かするとここに高速道路尾道松江線
のインターができやはり中間地点の位置を
維持していくことにはかわりがない。
雪の重みはすごくこのぶんだと雪下ろしを
はやくしないと庇を折る家も多くなる。