memories on the sea 海の記録

海、船、港、魚、人々、食・・・などなんでもありを前提に、想い出すこと思いつくこと自由に載せます。

中国の食文化 (2)

2013-01-30 00:01:45 | 
その後、孫は正明館と名づけた蒸豆饼の店を前門外の近くの肉を扱う通りに開いた。店は一族の孫学士にゆだねた。清朝の終わるころには孫学仁と孫学士の間にいさかいが発生、その問題解決のために法律に訴えた。調停の後に孫学士は正陽楼を離れたが孫学仁は非常に社交的で多くの友人があった。
中華民国の時代に孫学士はビジネス界のセレブとなり商工会議所に加入した。民国12年には彼は北京商工会議所回答に選出された。彼はビジネス界に影響を持つだけではなく軍隊や政治界にも影響を及ぼした。孫学士の社会的地位の高揚によ正陽楼は前例のない発展を遂げた。。そして正陽楼は毎日顧客で満員となった。多くの軍部高官や政治などその中には袁世凯、黎元洪、段祺瑞などが常連であった。重要な宴会がここで行なわれた。

正陽楼の人気は孫学士の地位や社会的交友だけによるものではなく食そのものの美味にあった。大きな蟹やその場でボイルしたマトンなどが顧客に好まれた。カニ好きの人々は毎年秋になるとここのカニを賞味した。誰もが知るようにカニは秋がもっとも脂に富んでいる。秋になると店は天津の沿岸まで人を送りカニを買い付けに当たらせた。彼らは大きくて活きのよいカニを漁民から買い特別なかごに入れて北京まで運んだ。このカニは。何日か汚れを吐き出させた後、洗浄し、鋏を縛ってから竹篭で蒸された。カニはしょうがと酢をつけることで味が深まった。
暦の上での秋の初日になるとその場で湯がいた羊のマトンが正陽楼で味わえた。ラムは長城の北部から指定した人によって買い集めた。羊舎は永定門近くにも設けられた。ここで太らせてから調理に用いた。ラムが殺されると水でさらし、たのち氷で部分ごとに処理か圧された。一昼夜後にはいやな匂いが抜けるマトンはその後に切られる。老人らによるとこうした方法はマトンについての必要な手順であるという。

薄切りにされたマトンは新鮮な調味料とともにスープとなった。一時期、正陽楼は北京で最上の店とされた。1940年代初めには多くの店がこうした方式をとった。正陽楼は閉店した。1986年政府の市場活性化の呼びかけにより、正陽楼はその歴史のある店を前面外東端に再開した。

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