茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.83 )
習近平は耿飈・副首相の秘書を2~3年間していた。その習近平が耿の秘書を辞めたのはなぜか、が書かれています。
ここには習近平の政治感覚が現れていると思います。
政治感覚などというと「いかにも凄そう」な感じがしますが、この能力は程度の差こそあれ、誰にでもあります。
要は、「空気を読む力」です。
ここで、習近平は「わが身のために」耿飈とのつながりを断ち切ろうとしています。
習仲勲には「わが身を犠牲にしてでも」といった要素がみられましたが、息子である習近平には、そのような要素はみられないのかもしれません。いざとなればドライな人間かもしれないですね。
習近平は計算高い人間かもしれません。
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父・仲勲の名誉回復が正式に決定された79年夏、近平は清華大を卒業し、就職先として中国共産党中央軍事委員会弁公庁(総務部門に相当)が割り当てられた。具体的な職務は当時の党政治局員で中央軍事委秘書長を兼ねていた耿飈・副首相の秘書だった。
(中略)
耿と仲勲の違いは、仲勲が小平寄りの改革派だったのに対して、耿は毛沢東を支持する文革派の幹部だったことだ。文革で苦汁をなめた仲勲に対して、耿は新中国建国後に外交畑に転じ、スイスやパキスタンの大使を務めたあと、外務次官を経てビルマ(現在のミャンマー)やアルバニアの大使、党対外連絡部長(閣僚級)を歴任するなど順風満帆だった。
(中略)
「秘書を辞めたい。基層(末端の組織)からやり直したい」
近平は他の若い秘書たちとの集まりで、自らの思いを吐露した。
「なぜだ。生活も安定し、いい目を見ているではないか」
彼らは驚き、近平の決意をいぶかしがった。しかし、近平が地方の末端幹部としてやり直したいと考えたのは単なるわがままではなく、当時の政治状況を敏感に読んだ結果でもあった。改革・開放路線の導入で、小平配下の改革派幹部が重要ポストに就き始めており、耿のような文革派幹部は徐々に排除されていくというのが近平の読みだった。父の仲勲が改革派の重鎮だけに、政治的な風向きには敏感にならざるをえなかった。
近平の読み通り、絶頂期だった耿の身にも徐々に変化が見られていた。81年6月の党中央委総会で、華国鋒が党主席を胡耀邦に譲り、小平が党中央軍事委主席の座を奪うと、翌7月、耿は軍事委秘書長を解任され、楊尚昆が後任に就いた。
(中略)
仲勲や楊が日の出の勢いなら、一方の耿飈は落日のたそがれだった。82年5月には副首相を解任され、11月には81年3月に就任したばかりの国防相の座も失い、83年6月に名誉職とも言える全人代副委員長に祀り上げられた。
このほぼ1年前の82年3月、近平はすでに耿の秘書を辞め、北京から約300km離れた河北省正定県の党委員会副書記として赴任していた。変わり身は早かった。
実は、近平は秘書を辞める際、耿に「地方に行きたい」と打ち明けた。その際、耿から「地方に行くなら軍の野戦部隊でいいではないか。私が紹介してあげよう」と言われたのを断わっている。
「耿の指示に従って野戦部隊に行けば、生涯、耿の部下という目で見られてしまう。そうなれば、耿が堕ちたときに道連れになる」
近平はこう考えた。
習近平は耿飈・副首相の秘書を2~3年間していた。その習近平が耿の秘書を辞めたのはなぜか、が書かれています。
ここには習近平の政治感覚が現れていると思います。
政治感覚などというと「いかにも凄そう」な感じがしますが、この能力は程度の差こそあれ、誰にでもあります。
要は、「空気を読む力」です。
ここで、習近平は「わが身のために」耿飈とのつながりを断ち切ろうとしています。
習仲勲には「わが身を犠牲にしてでも」といった要素がみられましたが、息子である習近平には、そのような要素はみられないのかもしれません。いざとなればドライな人間かもしれないですね。
習近平は計算高い人間かもしれません。
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