鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代東海道痕跡    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

上の道、下の道 5

2011年06月25日 | 東山道~鎌倉
  上の道,下の道 の巻 終り

上の道、下の道 の種明かしは,既に書きましたが、、
視点を変えれば、、、

太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
     講談的な話の誇張があり、戦後の又聞きの文章と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
     リアルタイムで書かれた当事者の文章。
梅松論は、鎌倉寄りの文人が、滅亡後に書かれた様で戦いの傍観者の様です。

武蔵大路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
鎌倉幕府側から、この路を「上の道」と呼ぶのは無理で、、
タテマエはドウでも、鎌倉にとって、平塚箱根の西方向が奈良や京の都で上ですから、、
鎌倉幕府から見れば、武蔵に向けた路は、山間僻地へ向かい奥州征伐に使用した様に未開の場所に行く感覚です
頼朝の鎌倉では、
鎌倉幕府は政治や経済の中心で、京都を従えて政治を行う都です。
鎌倉から出た道は総て下る道で鎌倉幕府に「上の道」は無い。
吾妻鏡で書かれた下の道は、太平記で書かれた「上の道」という訳です。

武蔵大路を前時代の東山道武蔵路の延長と考えれば、、オノズトその答えは出る。
東山道武蔵路は都に行く道=上の道となるのが朝廷の立場です。
鎌倉幕府では上を無視し下の道としても、反鎌倉幕府派には「上の道」となる。
ですから、、
平城京の「大和三道」とは成り立ちが違い、上下の意味も中身も違うし、立場で解釈が違う。
太平記、吾妻鏡、梅松論の記述は、幕府側か反幕府側かの視点で呼称が変わる。
更に、武蔵大路を防衛上の都合で破壊の後、本来の鎌倉街道が大路の脇を「いざ!鎌倉」の先陣争いの道が各氏の数だけ、、、、複数作られた。
 武蔵大路は消えて、結果は細い鎌倉街道が同じ方向に何本も在るのが現状です。
その様な訳で、鎌倉幕府が作った上の道、下の道の実態は無い。在るのは、「いざ!鎌倉」の先陣争いで使う直線道路で、6m幅や、9m幅の道路遺構は、古代の官路であろう!
  これが呼称の混乱についての考察です。
以前の研究者がソレゾレの説を主張しているのを承知で、ぼ輔流の説をデッチ上げました。
反論して頂けると嬉しいのですが、、、、

今の様な宅地化が無い戦前に、柳田国男(民俗学者)が著書「武蔵野の昔」で書かれた事は
 「この辺りの村々で老人などのよくいふ鎌倉路という古道である。此名が残って居れば必ず昔の奥州街道の宿場であったやうに決定してしまふが、第一それでは奥州街道が何本あっても足らぬ上に、単に鎌倉路といふだけでは、何処からのといふことが分からぬ筈である。」

古道探しが現在より数段楽な時代でも、この様であった。、
武蔵大路なんていう立派な道は土に埋もれ、細い鎌倉街道と呼ばれる路が多数存在する、しかし伝承は地元の生活道路であり鎌倉方面に行く道、鎌倉街道の痕跡の保障は無い訳です。
放射状に成るべき鎌倉街道が、伝承を元に地図に書き込むと網の目の状態になる理由は生活道で 江戸時代の伝承が大半の為に起きた現象と考えるのです。
上、中、下の道も根拠が曖昧のまま憶測で語られ風評と成り、その脇に在る幾多の鎌倉道の特徴を持った直線的な路が話題にされる事も無く、宅地化で消えていく。


 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋路の状況です。
「上の道、下の道4」とは逆方向の化粧坂から大船に向けた方向で写した写真です。
下の平地は北鎌女子グランドで、土橋の壁と異質な岩壁を撮ったものですが、植物に覆われて 岩壁は隠れてしまいました。要は、この岩壁は、海蔵寺裏の大堀切と同じパターンではないか?と考えるのです。
そして、土橋の柵が曲がったところが、前回の写真の矢印です。
岩壁と土橋の道の造りが関連するのです。
ぼ輔は、何を考えているのか??
海蔵寺裏堀切が武蔵大路痕跡の切通しとすれば、鎌倉最大の切通しですが
この場所が切通しであれば、海蔵寺以上の切通しとなります。
コメント   この記事についてブログを書く
« 東山道相模路8 | トップ | 鎌倉の古代 9 »

コメントを投稿