いつでも適切な対応ができるわけではない。人間はどこかで後悔があったり、怒りがあったり、諦めきれない思いがあったりする。例えばサッカーでも、あと1mつめていればあのゴールを防げたといった悔しい思いをしたとき、それがたとえン十年前の高校時代の試合であっても、本当にサッカーが好きだったら忘れることはできない。
フロイトの『悲哀とメランコリー』でも身近な喪失をうまく整理できないまま内面に抱え込んでしまうケースを扱っている。人は悲しい出来事から無縁でいられないし、つねに複雑な状況や関係のなかで生きているので、例えば、子どもが巣立ち、更年期を迎えた女性が、思春期から確執を抱えたままでいた親を亡くし、兄弟姉妹間で相続問題が起きたようなとき、その悲哀は得体のしれない妖怪のようにまとわりついてきて、抑うつ気分がじわじわと染み込んできて自分でも気付かないまま人生に落胆してしまうこともあり得る。
たぶん、メランコリーに陥っていくのは複数の出来事が同時にのしかかってくるときだろう。そして、自分の目の前で本当に起こった出来事を誰にも語れない状況にあるときは、確実に悲哀は深まり長引く。孤立感が強まり、悲観的に物事を考えてしまい、いろいろな局面で他者に敵意を抱いたりしてしまう。
漱石の『草枕』に「智に働けば角が立つ、情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ」という文があるけど、人は腹が立ったり、納得できないことをされたとき、感情的に行動してしまって、そのあとの処理に戸惑ってしまうことがある。そして、それが棘のように刺さったまま生きていくしかないとため息をつくことがある。頭の中ではもっと上手くやればよかったし、流れに身を任せていっちゃえばよかったと分かっていても、感情がそうしようとする気持ちを遮って、メランコリーのドツボにさらに身を沈めてしまったりする。