原罪という言葉はあまりに漠然として何を言おうとしているのかわからないけど、簡単にはわからないということが原罪の原罪たる証しなのかもしれない。
以前、ランニングサークルの女性に「なぜ走るんですか?」って訊かれ、「罪を犯したようなので罰として走っている」って話したことがある。今日、再会したら、「○○さん、私も昨日食べちゃったから罰として走ります」って言ってきた。彼女も冗談半分だったとは思うんだけど、罪を、食べるという欲に負けてこれ以上食べないでいようとしてたのに食べてしまったことと解釈してきた彼女の言葉が、とても深い理解だなって感じた。つまり理性で決めたことを、本能的な欲に負けて遂行できなかったことを罪と考え、その罪を犯した自分への罰として、肉体的に苦しい思いを自分に課すということだ。
人間が欲をすべて抑制するようになったら逆にいろいろと困ったことも起きると思うけど、欲がすべてを支配したら人は人でいられなくなると思う。だから、その欲を好ましいレベルにコントロールしようと人が発明した者が宗教だったのではないか。
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