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好奇心育むクラゲ研究所の夏

2018-09-15 07:00:00 | 報道/ニュース

8月23日 おはよう日本


子どもたちの夏の楽しみ 盆踊りに現れたのは頭にクラゲの被り物
クラゲ研究者の久保田信さん(65)である。
日本屈指のリゾート地 白浜。
その海辺に小さな建物がある。
7月 久保田さんが開いたクラゲの研究所である。
白浜周辺の海は日本有数のクラゲの生息地である。
研究所にはそこで見られる30種類以上のクラゲが展示されている。
わずか数ミリほどの小さなクラゲも顕微鏡で誰でも自由に観察できるようにしている。
3月まで京都大学で研究していた久保田さん。
40年以上積み重ねたクラゲの研究を続けたいと
自ら資金を出して起ち上げた。
なかでも久保田さんがライフワークとしてきたのは ベ二クラゲ。
大きさは数ミリほどしかないが驚くような能力を持っている。
ベ二クラゲは年老いたり傷ついたりすると
次第に縮んで小さなかたまりになってしまう。
しかし数日たつとかたまりが成長をはじめ
やがてもとの若い体に戻る。
いわゆる“若返り”が出来るのである。
(久保田信さん)
「ベ二クラゲの秘密を知ることが人類の夢につながっていると思う。
 そんな夢のある動物がいることをぜひ知ってもらいたい。
 多くの人に1人でも。」
オープンしてから2週間。
珍しい研究所のうわさを聞いて地元の小学生が集まっていた。
その中に熱心に質問を繰り返す子どもがいた。
小学6年生の樫木大征くん(11)。
久保田さんも驚くほどの知識の持ち主である。
小さい時から本が大好きな大征くん。
クラゲについても3年生の時に読んだもので興味を持つようになり
以来ずっと本や図鑑で知識を得てきた。
しかし実際に海に出かけてクラゲを見たことはほとんどなかった。
この日 久保田さんは実際のクラゲを観察する楽しさを教えようと
大征くんをとっておきの場所に連れて行った。
そこにはたくさんのクラゲが漂っていた。
これだけの数のクラゲを見るのは
大征くんにとっても初めてのことだった。
(久保田信さん)
「現場に行ってじっと見てたら
 どうしてかなって思うことがいっぱいあるやない。
 もっと知りたいとか
 それがいちばん大事。
 それが科学の根本やから。」
それから大征くんは熱心に海に通い続けた。
久保田さんが教えてくれた場所で
毎日クラゲの数や海の状態などを記録していった。
(大征くん)
「大物もおればさ でかいやつ
 おらんときもある。」
観察を始めてから2週間。
大征くんは久保田さんが驚くものを持ってきた。
クラゲについてまとめた自由研究である。
そこには久保田さんに教わったベ二クラゲのスケッチや
自分で観察したクラゲの記録が詳しく書かれていた。
(久保田信さん)
「良くまとまってる これは。」
さらに大征くんには観察を続けるなかで気付いたこともあった。
(大征くん)
「お盆過ぎにクラゲがいっぱい増えると言ってたやん。
 全然増えんかったで。
 逆に減ってたで。」
(久保田伸さん)
「それはどうしてやと思う?」
(大征くん)
「先生がとったん?」
(久保田伸さん)
「いや とらん とらん!」 
(久保田伸さん) 
「現場に調べに行くのおもしろいでしょ。
 いつも疑問が出てくるからね。」
この夏 クラゲをこよなく愛する久保田さんが作った小さな研究所。
自然に対する好奇心が受け継がれていく。
 

 

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高まる人気!台湾産の紅茶

2018-09-14 07:00:00 | 報道/ニュース

8月23日 キャッチ!ワールドEYES


暑い台湾の夏。
食後の人々ののどを潤してくれるドリンクスタンドで
ここ数年欠かせなくなっているのが台湾産紅茶である。
ウーロン茶やミルクティーと並ぶ看板メニューとして
若者を中心に人気が広がっている。
(来店客)
「いつも紅茶を飲んでいます。
 濃厚な味わいが紅茶はしますので。」
「きょう買ったのは蜜香紅茶です。
 さわやかで甘いですよ。」
オーナーの陳昭鳳さん。
大の紅茶ファンで契約農家で生産した台湾産の紅茶にこだわり
オリジナルのブレンドティーなど10種類余をメニューに揃えている。
紅茶に関心を持ったきっかけは
その深みと香へのこだわりだった。
(陳昭鳳さん)
「農家が提供してくれた紅茶の味に満足できなかったので
 自分が追い求めるものにしたいと思い
 紅茶作りにはまっていきました。」
ホットよりもアイスで飲むことを好む台湾の若い世代。
彼らの好まれる新しい飲み方を提案できないか
研究を重ねる日々を送っている。
(陳昭鳳さん)
「紅茶は本当に魅力的です。
 多くの人に台湾の紅茶を知って欲しいです。」
ここ数年人気が広まった台湾産紅茶だが
大規模な生産が始まったのは実は戦前の日本統治時代にさかのぼる。
当時 日本国内の需要に応えるため
日本人によってインドなどから種が持ち込まれた。
日本人が紅茶の栽培をしていた台湾中部の試験場は
今は農家への指導を行う拠点として台湾産紅茶の生産拡大の要を担っている。
この20年近くは日本統治時代から残る茶葉も活用し
台湾オリジナルの開発やブランド化に取り組み
品質の高い紅茶の生産に成功。
さらには
ウーロン茶向けの品種で紅茶を作る技術も確立し
生産する農家が増えていると言う。
(紅茶生産指導 責任者)
「ここ数年 紅茶栽培の技術指導を行なう件数は倍増し
 問い合わせも非常に多くなってきています。」
台湾産紅茶の中でも特に人気を集めているのは
ほのかな甘い香りや甘みが特徴の“蜜香紅茶(みっこうこうちゃ)”である。
“蜜香紅茶の元祖”とも言われる農家 粘筱燕さんの直売所には
各地から紅茶を買いに来る人が後を絶たない。
(来店客)
「花の蜜のような味で果物の香りもします。
 飲んだ後の余韻も最高ですね。」
人気を集める甘みの秘密は
“ウンカ”と呼ばれる虫。
日本でも稲の害虫として知られるウンカは
茶葉の価格を下げる害虫として
台湾のウーロン茶の生産者にとっても悩みの種だった。
しかし粘さん夫婦が公的機関と研究を重ねた結果
ウンカがかんだ茶葉をウーロン茶ではなく紅茶として作ると
果物の蜜のような甘みと香りを持つことがわかった。
(粘筱燕さん)
「夏だけではなく春でも冬でも
 ウンカがかんだ茶葉で紅茶を作るととても良いものが出来ます。」
ただその製造方法は単純ではない。
ウンカにかまれた茶葉はただでさえ含んでいる水分が通常より少ないため
作る過程で乾いてしまわないよう気を配らなければならない。
(粘筱燕さん)
「時々ウンカが水分を吸い過ぎてしまい
 それで製造すると途中で乾いてしまいます。
 経験を頼りにこまめに水分の状況を見なければなりません。」
ウンカにかまれた茶葉を高品質の紅茶として提供できる
粘さんの革新的な製造方法は
台湾各地から注目を集め
「蜜香紅茶」の知名度は台湾全土で広まった。
“ハチミツの香りがする紅茶”などと評価を受け
日本やヨーロッパなど海外からも買い付けに来ていると言う。
(粘筱燕さん)
「外国の方が蜜香紅茶を飲むと
 みんな蜂蜜の香りに驚きます。
 すばらしいものを作って
 世界の人たちに私たちの紅茶を好きになってほしいです。」
新たな進化を遂げた100年以上の歴史を持つ台湾産紅茶。
作り手のこだわりで
台湾の人々の生活に色どりを添えている。


 

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日中共同制作アニメ そのメッセージは・・・

2018-09-13 07:00:00 | 報道/ニュース

8月23日 おはよう日本


中国と日本の3人の若手監督が共同制作した作品
「詩季織々」。
それぞれの監督が
上海・広州・湖南省を舞台に
中国の若者の日常を描いた3つの短編から成っている。
映像を手掛けたのは
新海誠監督のヒット作「君の名は」を制作した日本の会社である。
3人のうち総監督も兼ねた上海の制作会社の 李豪凌さん(32)。
李さんが描いたのは
上海に生きる若者の青春である。
この作品を通して
日本の観客にも等身大の中国を感じてほしいと言う。
(ハオライナーズ アニメーション監督 李豪凌さん)
「作品で表現されている家族への思いや恋心は
 見た人誰もが共感できるものです。
 遠大な話や政治のことばかりを放す必要はないのです。
 この作品で中国の今の庶民の暮らしが理解でき
 日本と中国の距離が縮まると思います。」
映画にはもう1つの狙いがあった。
それは急速に変わりゆく中国の今の姿を
美しい絵で残し伝えることである。
映画に登場する李さんが育った上海の伝統的な街並みは
都市開発で姿を消しつつある。
(ハオライナーズ アニメーション監督 李豪凌さん)
「こうした光景はほとんど無くなり
 非常に残念です。
 日本のアニメの手法で
 伝統的な街並みの良さを世界中の人たちによりリアルに伝えられます。」
北京で行われた上映会でも中国の若者の共感を呼んでいた。
「なじみのある中国の情景が出てきて感動しました。」
「上海の物語が心を打ちました。」
駆け付けた日本の制作会社も日中合作に期待を寄せている。
(コミックス・ウェーブ・フィルム 川口代表取締役)
「漫画やアニメは
 歴史とか政治問題を簡単に超えていく。
 ロケ地に世界中の人が写真を撮りに来たら
 面白い。」
(アニメーション監督 李さん)
「家族愛や恋愛感情
 あるいは中国の文化や風景を通して
 日本人に中国の新たなイメージを持ってもらえることはうれしいことです。」



 

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デンマーク 新・移民政策 “ゲットー”の名のもとに

2018-09-12 07:00:00 | 報道/ニュース

8月21日 国際報道2018


福祉国家として知られるデンマークで
いま移民に対する政策に大きな異変が起きている。
政府がイスラム教移民などが暮らす地区を「ゲットー」と名付け
貧困や犯罪を減らそうとしている。
「ゲットー」とは
第二次世界大戦中 ナチス・ドイツがユダヤ人を隔離するために作った居住地区である。
デンマーク政府は新たな移民政策を“ゲットー・プラン”と名付け
厳しい姿勢を打ち出している。
「ゲットー」という言葉にはナチス・ドイツ時代のユダヤ人居住区以外にも
大都市の貧しいマイノリティーが密集して住む地域を否定的に表現する際に使われる言葉である。
デンマークのラスムセン首相は今年3月
この「ゲットー」という刺激的な言葉をあえて使って
“ゲットー・プラン”と呼ばれる移民に対する政策を発表して波紋を呼んでいる。
“ゲットー・プラン”とはどのようなものなのか。
1960年代から移民を労働力として受け入れてきたデンマーク。
シリアの内戦など最近の中東の混乱もあり移民は増え続けている。
全人口579万人に占める移民の割合は現在 8,6%に達している。
ただ国民の間では移民が就職せずに福祉に頼っているとして
“福祉にただ乗りしている”という不満がくすぶっている。
こうしたなか201年に誕生したのが厳しい姿勢を示すラスムセン政権である。
ラスムセン政権が今年3月に打ち出した“ゲットー・プラン”。
移民や難民が住民の半数を超え
失業率が高い国内30か所を「ゲットー」に指定する。
窃盗などの犯罪を他の地域よりも厳しく処罰したり
社会統合を進めるため
1歳になった子どもたちは週30時間以上保育園へ通うことを義務付け
デンマークの言葉や男女平等などの価値観を学ばせるなどとしている。
「ゲットー」の住民をデンマーク社会に溶け込ませるための対策を強化し
貧困や犯罪を減らそうというものである。

デンマークの首都コペンハーゲン。
約2,500人が暮らすミュルナパーケン団地。
政府が指定する30の「ゲットー」の1つで
欧米以外からの移民が約8割を占めている。
失業率の高さが大きな問題となってきた。
ラスムセン首相は今年
こうした“「ゲットー」の中にデンマーク社会に溶け込む努力を怠っている人がいる”と批判。
移民に対するあらtな対策“ゲットー・プラン”を打ち出した。
(デンマーク ラスムセン首相)
「働かずに福祉で得たカネで暮らし
 犯罪が多い地区がある。
 政府は問題の多い地区を完全になくす。
 「ゲットー」を一掃する。」
政府の対策は差別的ではないか?
首相はそんな問いかけに平然と答えている。
(デンマーク ラスムセン首相)
「確かにある部分では差別的だと認める。」
ラスムセン政権の移民対策に対して市民の意見は割れている。
(市民)
「機会を利用して支援を受け過ぎの人もいる。」
「移民を歓迎しないのは寛容の精神に反する。
 「ゲットー」も問題です。
 特定の地域の人を差別しています。」
ミュルナパーケンの住民の間には“ゲットー・プラン”に動揺が広がっている。
自治会長を務めるパキスタン出身のアスラムさん。
“ゲットー・プラン”は団地の住民への偏見を助長することになると言う。
(自治会長 アスラムさん)
「通りを隔てた人は保育園に通うか選択できる。
 なぜ私たちはだめなのか。
 法治国家なのに特定地域の人だけ権利を奪われるということだ。」
アスラムさんは
政府が選挙対策のためイスラム教徒を標的にしているとして
“ゲットー・プラン”を見直してほしいと訴える
(自治会長 アスラムさん)
「特定の地区に住んでいる住民から憲法上の権利を奪うことは差別だ。
 住民はみんな自分をデンマーク人だと感じているのに
 なぜ認められないのか?」
移民問題に詳しい大学教授は
特定の集団を標的にした政策は社会を分断するだけだと警鐘を鳴らす。
(ロスキレ大学 ミシェル・ペース教授)
「政権は社会をあおるため戦略的に“ゲットー”という言葉を使い
 標的とされた儒眠だけでなく
 社会全体に怒りの感情をかきたてている。
 この風潮は1920~30年代に
 社会がファシズムへと突き進んだころと同じだ。
 “よそ者だ”“危険だ”とレッテルを貼り扇動したあの頃のようだ。」
一方 移民の中にも自分たちからデンマーク社会に溶け込む努力をするべきだとして
政策を支持する人もいる。
シリア生まれのナサ―・カダ―議員である。
祖国とのつながりやイスラムの教えを厳格に守るだけでは社会から孤立するだけだと言う。
(デンマーク議会 カダ―議員)
「出身国の文化とデンマークの文化の両方を持つことは可能だ。
 「ゲットー」にはそれを拒否しているかのような人もいる。
 同化を求めているのではなく
 デンマーク社会の一員として生きてほしい。」
ミュルナパーケンの団地でも
デンマーク社会への統合に向けた住民側の努力が始まっている。
この日 団地では子どもたちがゴミ拾いなどの活動に汗を流していた。
子どもを指導する男性は19年前にレバノン内戦を逃れデンマークに来た。
こうした活動を通じて
子どもたちに社会のルールを身につけてほしいと考えている。
(子どもを指導する住民)
「時が来れば団地を出てデンマーク社会に出ていく。
 その時に困らないよう
 ルールを守るなど規範を教えていきたい。」



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イエメン難民に揺れる韓国

2018-09-11 07:00:00 | 報道/ニュース

8月22日 キャッチ!ワールドEYES

真っ青な海と空。
“韓国のハワイ”とも呼ばれる南部のリゾート地 済州(チェジュ)島。
韓国国内をはじめ日本や中国などから
1年あたりで島民の約20倍にあたる1,500万人近い観光客が訪れる。
その済州島に今年に入りイエメンの難民が急に押し寄せたのである。
済州島ではより多くの外国人観光客を呼び込もうと
2002年からビザなしで30日間滞在できる制度が実施されていた。
そこに去年12月
イエメンからマレーシア経由で済州島に入る航空路線が新設され
今年に入りイエメンから500人余の難民が流入。
そのほとんどが難民申請をしたのである。
この事態を受けて韓国政府は今年6月
ビザなし入国精度からイエメンを除外する措置をとった。
一方国内ではこのイエメン難民をめぐり意見が真っ二つに分かれる論争に発展。
7月にはソウルなど各地で難民の支援を求めるデモと受け入れ反対を訴えるデモが起きている。
「人道的な支援は必要です。」
「世界的に注目される難民は受け入れないといけません。」
「正直 難民は怖いです。」
「外国人より自国民を優先するべきです。」
5月にイエメンからやって来たヤーセルさん(23)。
大学で経済学を学んでいたが戦闘が激化して
身の危険を感じるとともに徴兵を避けるためイエメンを離れたと言う。
イエメンでは8月2日 港湾都市ホデイダの病院が攻撃され少なくとも26人が死亡。 
9日には北部の都市サアダ近郊で子どもたちが乗るバスが空爆を受け
40人の子どもを含む51人が犠牲となった。
(イエメン難民 ヤーセルさん)
「すべてが破壊され
 以前のように安全ではなくなりました。
 南に行けば北
 北に行けば南と戦うことになります。」
イエメンから持参したお金を切り詰めてホテルに宿泊しているヤーセルさんだが
それも底をつきかけ
今は支援団体から支給される食糧などでなんとか生活している。
仕事が見つからないうえ韓国各地で難民受け入れ反対のデモが起き不安をつのらせていると言う。
(イエメン難民 ヤーセルさん)
「みんな私たちを受け入れられないと言います。
 なぜ韓国の人たちが私たちを憎むのか分かりません。
 どこへ行けばいいのですか。
 どの国も受け入れてくれないのに。」
そんなヤーセルさんたちの心の支えとなっている人がいる。
済州島でホテルを経営するキム・ウジュンさんである。
キムさんはイスラム教の断食月ラマダンの時に
深夜 行き場のない難民たちのためのホテルの食堂を開放するなど支援を続けてきた。
キムさんのところには
“なぜイエメン人を迎え入れるのか”
“怖いからやめてほしい”
などの電話が数多く寄せられたが支援をやめなかった。
(ホテル経営 キム・ウジュンさん)
「彼らは内戦終結までここで暮らして帰国したいだけです。
 見た目に嫌悪感を抱くかもしれませんが
 爆撃のため天井は雨漏りがして隣人の死を目撃するのは悲惨です。」
(イエメン難民 ヤーセルさん)
「彼はラマダンのときなどで支援してくれています。
 みんな彼に感謝しているし
 彼のことが大好きです。」
キムさんは新たな支援を始めた。
食堂スペースで行う無料の韓国語教室である。
通常 難民申請から半年以内の就業は認められないが
イエメンからの難民に関しては特例として農業や畜産などに限りすぐに仕事に就くことができる。
しかし言葉が不自由なため採用してもらえなかったり
採用されても仕事が続かなかったりする人が相次いでいる。
毎日2時間ほど行われる教室には10人余のイエメン人が参加し韓国語の勉強に励んでいる。
(ホテル経営 キム・ウジュンさん)
「今後も韓国語を勉強できる場所を提供していきます。
 内戦が終わったらイエメンに行きたいですし
 彼らには“実家に泊まって”と言われています。
 いい人たちで
 息子のようです。」
(イエメン難民 ヤーセルさん)
「彼は必要な時は助けると言ってくれました。
 内戦が終わったら祖国で会社を経営したいです。」

韓国政府は難民申請をしている500人余について
担当する法務相の職員を増やし
通常だと8か月かかる審査を3か月で終えるとしている。
このため9月中には多くの審査結果が出てくるものと見られる。
ただどのような審査結果になるのかは見通せない状況である。
韓国政府は5年前に「難民法」を定めたが認定率は4,1%にとどまっている。
キムさんをはじめとする支援が済州島の歴史に大きく影響を与えている。
済州島では7年前 一部の島民が暴動を起こし
これを保守派の韓国の初代大統領が徹底的に弾圧する「四・三事件」が起きた。
この結果 2万5,000人~3万人にのぼる島民が殺害され
一部は難を逃れるため日本に渡ったとされている。
難民を支援する多くの市民は
内戦に巻き込まれ海外に逃れざるを得ないイエメン人の状況が
「四・三事件」当時の島民の姿に重なると口をそろえて話していた。
今回の1件で
難民法の廃止を求める請願が大統領府へ寄せられ
賛同者は70万人以上にのぼる事態となっている。
こうしたなか弁護士出身でもある文大統領はまだ自らのことばで方針を示しておらず
済州島の支援団体からは
文大統領が自らのことばで難民の受け入れについて説明すべきだという声が聞かれる。
世界で難民の数が増え続けるなか
今後 韓国がどのように向き合っていくのか
隣国である日本にとっても他人事ではない。



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世界をつなぐ小池さん

2018-09-10 07:00:00 | 編集手帳

8月23日 編集手帳

 

 アニメの作画監督などとして長く活躍した鈴木伸一さん(84)は『オバケのQ太郎』に登場して、
ラーメンばかり食べている「小池さん」のモデルとして知る人ぞ知る。

若い頃は漫画家志望であのトキワ荘に暮らした。
おなかがすくと即席のラーメンばかりを食べていた。
その姿が「オバQ」作者の藤子不二雄の両氏に大いなる影響を与えたらしい。

日清食品が世界初の即席麺チキンラーメンを発売して25日で60年を迎える。
オバQに商品名は出ないものの、
鈴木さんは以前、
それがトキワ荘時代の主食だったと本紙に語っている。
ということは、
小池さんも?

昭和の半ばあたりを振り返ると、
即席麺の地位は高くはなかった。
心配の主はお母さん方だった。
そればかり食べていると栄養が足りないとか。
それこそ小池さんみたいなことじゃいけないとか。
それが今や災害時の被災者や飢餓に陥る国への支援物資として、
世界に確固たる地位を築く。
政府が進める「クールジャパン」戦略の顔役にもなっている。

思えば「漫画・アニメ」もそうだろう。
日本が誇るその二つの分野をつなぐとすれば、
小池さん恐るべし。

 

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美しい大阪に、回帰

2018-09-09 07:00:00 | 編集手帳

8月22日 編集手帳

 

 大阪の町は昔、
外国から訪れた人が驚くほどにきれいだったらしい。
ロシア人宣教師ニコライが、
明治期の1882年6月1日付の日記に書き留めている。

<大阪で思わず注意をひかれるのは、
 町の清潔さだ。
 この町はめったにないほど清潔に保たれている。
 どの通りも掃除がゆきとどいており、
 まるでよく手入れされた大庭園の並木道のようだ>
(岩波文庫『ニコライの日記』上巻、中村健之介編訳)

英エコノミスト誌の調査部門が毎年発表している「世界で最も住みやすい都市」で、
今年は日本の都市が3位へと躍進した。
大阪である。

治安や交通、
教育、
医療などを採点した結果だという。
ちなみにウィーン(オーストリア)が1位で東京は7位。
先の行で思わず「躍進」と書いたが、
ニコライ師に言わせれば、
美しい大阪に「回帰」したということかもしれない。

かつて大きな話題になった公共広告を思い出す。
犯罪の多さに漫才師の横山やすしさんを起用し
<どないなってんねん、大阪!>と呼びかけた。
日本一を続けた「ひったくり」にしても、
数はかなり減ったと聞く。
どないかなったん、
ですかね。


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金足農業高校旋風

2018-09-08 07:00:00 | 編集手帳

8月21日 編集手帳

 

 いつ何があったから、
というわけではなく、
数字の形や印象で記念日ができることがある。
耳の日「3月3日」、
ヒゲの日「八月八日」、
目の愛護デー「一〇月一〇日」

ここ数年、
水族館でにわかに人気の出たチンアナゴは「11月11日」が記念日だという。
東京の「すみだ水族館」が定めた。
砂からにょきっと体を伸ばし、
口をぱくぱく開けている。
みながなぜか同じ方向を向いていて、
ダンスでもするかのように体を揺らしている。

今夏の甲子園に似た光景がある。
笑顔と大声で、
体をのけぞらせながら校歌をうたう金足農業高校(秋田)の選手たちである。

かつての強豪とはいえ、
有望選手の集まりやすい都会の学校ではない。
地元の子で占める県立の農業高校が決勝の舞台にコマを進めた。
3回戦、
準々決勝は土壇場の逆転劇で、
はらはらドキドキの勝ちぶりといい、
おなじみになった元気な“ダンス”といい、
全国にファンを広げたことだろう。

決勝のきょうは何の日になるだろう。
大阪桐蔭の優勝なら2度の春夏連覇は史上初。
金足ならば東北勢は言うまでもなく、
農業の名のつく高校としても史上初だ。

 

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誇らしい花丸を

2018-09-07 07:00:00 | 編集手帳

8月20日 編集手帳

 

 スギセンこと杉山先生は試験の採点にこだわりがあった。
答案用紙に点数でなく、
大きな丸か花丸を付ける。
「できました」と「良くできました」の2段階評価だった。

戸惑う親らにスギセンは説いた。
100点を取らせるのは簡単です。
でも小学校を卒業すれば先はずっと厳しい競争が続く。
せめて、
今だけでも…

ノンフィクション作家の稲泉連さんは随筆「歌の時間」(岩波新書『先生!』所収)で、
型破りな恩師を誇らしげにつづる。
常識的には正しいと言えない。
けれど、
「子どもたちは花丸が大好きなんです」と闘う姿は<どんな教師よりも教育的な存在であった>

これもまた、
強い信念に基づき実施される策なのだろう。
大阪市の吉村洋文市長が全国学力テストの結果を教員の人事評価に反映させると表明した。
市の成績は低迷が続く。
数値目標を定めて奮起を促すそうだ。

点数主義の是非は問うまい。
ただ、
稲泉さんは書いている。
自分が一番よく知っていたと。
<懸命に勉強した後の花丸は誇らしく、
 そうではなかったときはみすぼらしく見える>。
誇らしい花丸がつくといい。
児童にも先生にも。


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盆踊りを盛り上げる!若きDJの挑戦

2018-09-06 07:00:00 | 報道/ニュース

8月20日 首都圏ネットワーク


それぞれの地域で長年愛されてきた盆踊り。
最近では人口減少で若い人が集まらず
盆踊りを開きたくても開けない地域が増えていると言われている。
そんななか昭和のヒット曲やヒップホップを流して
子どもから大人まで楽しめるちょっと変わった盆踊りが栃木県鹿沼市にある。
夏の風物詩 盆踊り。
伝統の祭りをDJのテクニックが盛り上げる。
中心に立つのは DJ NECO(28)。
(DJ NECOさん)
「日本の良さ+海外の良さをミックスさせて
 うまく融合させてやっていければいいと思う。」
鹿沼市出身で栃木県では若手DJナンバーワンと評判のNECOさん。
若手DJの技を競う全国大会で優勝するほどの腕前で栃木の夜を熱く盛り上げている。
そんなNECOさんの本職は特別支援学校の先生である。
現在6年生のクラスを担当している。
子どもたちの音楽の楽しさを知ってもらいたいと
月に1度 DJ授業を行っている。
(DJ NECOさん)
「音楽の力ってすごいなと思うので
 いろいろな人にDJを通して広めていきたい。」
NECOさんの地元 鹿沼市中心部では若者の地域離れや人口減少が進み
6年前を最後に盆踊りは行われていない。
新しい盆踊りで街に活気を取り戻そうと地元の商店主たちが起ち上がった。
若者でも楽しめるように演出したいと
NECOさんに盆踊りのDJ “盆DJ”を依頼したのである。
(盆DJ主催者)
「新しい盆踊り文化を今風に
 NECOさんの28歳の若い力でやってもらえたらと思って。」
盆踊りで流す歌の1つ 栃木県の定番「日光和楽踊り」。
「日光和楽踊り」を若者でも楽しめるダンスミュージックにアレンジするため試行錯誤が続く。
(NECOさん)
「うまくスクラッチして入れようかと。
 リズムが一定じゃないので微調整が必要。
 うまくブレンドさせると面白いことができる。」
地元鹿沼の街に賑わいの音楽を響かせたい。
DJ NECOのプレイとともに6年ぶりの盆踊りが始まった。
音に引き寄せられて続々と人が集まる。
そしていよいよ「日光和楽踊り」。
日光和楽踊り×StreetDreames。
(参加者)
「こんなど田舎の町に最高っすね。」
「今現在と混ざってていい。」
(DJ NECOさん)
「DJがみんなをつなぐ1つになった。
 地元鹿沼を盛り上げるすべとしてはいい。
 “いいね”“楽しそうだね”というのを発信できればいい。」
地域の絆をつなぐ“盆DJ”。
人々の輪がまわり始める。

 

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中国 仏教芸術の伝承 日本の技法が一役

2018-09-05 07:00:00 | 報道/ニュース

8月20日 キャッチ!


中国 北京から南東に25㎞。
砂漠の先にある崖の壁面にいくつもの穴が見えてくる。
世界遺産 敦煌莫高窟。
長さ1,7キロに及ぶ世界最大級の石窟群である。
紀元4世紀ごろから約1,000年にわたって造営が続けられた。
700を超す石窟のうち492に色鮮やかな壁画の世界が広がる。
仏教芸術の宝庫で“砂漠の大画廊”とも言われる。
壁画を彩っているのは岩絵の具。
描かれた当時の美しさが今も残っている。
8月1日
日中平和条約が結ばれてから40年の節目に
日本画家 平山郁夫さんの絵画や収蔵品を集めた展覧会が敦煌で始まった。
1979年に平山さんが敦煌を初めて訪れた際に描いたスケッチや
莫高窟壁画を描いた絵画など
197点が展示されている。
シルクロードを生涯のテーマとしていた平山さんがもっとも足を運んだのが敦煌だった。
平山さんは自身の制作の傍ら
中国文化財の保護の重要性を訴えるとともに
いわゆる岩絵の具を使った技法を教えるため多くの画家や研究者を日本に招いた。
この展覧会を心待ちにしていた人がいる。
侯黎明さん(61)。
かつて東京に留学し平山さんから直接指導を受けた画家の1人である。
(画家 侯黎明さん)
「平山先生が敦煌でスケッチするのをそばで見ていました。
 感慨深いです。」
侯さんのアトリエがあるのは莫高窟の研究機関 敦煌研究院。
1944年に設立された国の研究機関で
現在97人の研究者や画家が莫高窟の研究を行っている。
侯さんはここで30年以上にわたり壁画の模写に携わってきた。
使っているのは莫高窟でも使われていた岩絵の具。
さまざまな鉱物を細かく砕いて顔料としている物である。
(画家 侯黎明さん)
「莫高窟の壁画を見ても分かるように
 岩絵の具が生み出す美しい色合いは1,000年を経ても変わらずに残ります。」
岩絵の具は水彩画や油絵の絵の具と違い粒が大きく
それを何層も塗り重ねることで独特の重厚感が生まれる。
この塗り重ねる技法は日本画では“重ね”と言われている。
1985年 美術大学を卒業後 敦煌研究院に入った侯さん。
同じころ敦煌を訪れていた平山さんに腕を見込まれて日本に招かれ
1989年から3年間
平山さんの研究室で日本画の技術を学んだ。
中国では長い歳月をかけて芸術の主流が水墨画などに変わり
岩絵の具を使った技法は忘れ去られていた。
その一方でシルクロードを経て日本に伝わった岩絵の具を使った技法は
その後も受け継がれながら発展を遂げ
日本画として残っている。
(画家 侯黎明さん)
「日本画を初めて見たときは驚きました。
 最初はうまく描けませんでした。
 花のスケッチから始めて
 色を塗り
 自分の絵が出来たときは岩絵の具の純粋な美しさに感動しました。」
中国では失われてしまった技法を再び敦煌へ里帰りさせようとした平山さんの思いは
侯さんによって後輩へと受け継がれている。
敦煌では新たな試みも始まっている。
それは画家たちによる壁画の完全な再現である。
“第175窟”と呼ばれる唐の時代の壁画を
色や筆使いはもちろん
壁面の剥がれ落ちた部分や変色した部分まで
4年の歳月をかけてありのままの姿に再現する取り組みである。
今はまだ下絵の段階だが
いずれは岩絵の具で彩られる。
(画家 侯黎明さん)
「私たちが敦煌の文化を継承し
 現代の技術を組み合わせることによって
 敦煌を未来に残し
 その価値をさらに高めていくことができると思います。」


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首都高の未来

2018-09-04 07:00:00 | 編集手帳

8月19日 編集手帳

 

 旧ソ連のSF映画「惑星ソラリス」は未来都市を描く。
ビルの谷間を縫うハイウェーは東京都心の首都高速道路の映像だ。
ロシア映画の巨匠タルコフスキー監督が1971年に撮影した。

首都高は東京五輪までの開通が至上命令だった。
用地買収の手間を省き、
河川や道路上に高架を通した。
川沿いに曲がりくねる高架の建設は、
過去にない高度な技術を要す。
行政と土木、
建築、
鉄鋼業界が総力を挙げた。

タルコフスキー監督は「建築では疑いもなく日本は最先端だ」と日記で称(たた)えている。
残念なのは、
五街道の起点、
日本橋が高架に覆われることだった。

干拓した川底に首都高を通す案は、
役所の河川担当の反対に遭う。
日本橋生まれの詩人、
高田敏子さんは〈東京という都会が美人に生まれ変わるための整形手術〉と自身に言い聞かせた(『首都高物語』青草書房)

そんな日本橋に青空が戻りそうだ。
周辺の高架を撤去し、
首都高は地下を通す案である。
国土交通省や都が、
次の東京五輪後の着工で大筋合意した。
五輪まで2年足らず。
戦後復興を象徴する五輪へ汗をかいた日本人に、
改めて思いを馳(は)せたい。


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盆踊りの定番!「ダンシング・ヒーロー」

2018-09-03 07:00:00 | 報道/ニュース

8月18日 おはよう日本


8月5日
名古屋城で開かれた盆踊り。
伝統的な曲に続いて流れたのは
荻野目洋子さんの「ダンシング・ヒーロー」。
みなさん振り付けは完璧。
この「ダンシング・ヒーロー」
大坂にある高校のダンス部がバブル時代に流行ったメイクや衣装で踊る姿が
去年インターネットの動画投稿サイトで話題に。
30年前の大ヒット曲が再び注目を集めたが
名古屋やその周辺では盆踊りの定番なのである。
「みんなやるもんね 若い子は。」
「大昔からやっとるもんね。」
「ダンシング・ヒーローは今年4回目。」
「血が騒ぐっていうの?」
「去年もダンシング・ヒーローが踊れたので
 気分もワーッと高揚しながら踊れるので
 大好きです。」
なぜこの曲が盆踊りで踊られるようになったのか。
その答えを知る人は
およそ2千人のお弟子さんを持つ日本民謡研究会の会長 可知豊親さん。
(日本民謡研究会 可知豊親会長)
「私の母の二代目 島田豊年が振り付けをした。
 昭和60年ごろに荻野目洋子さんのダンシング・ヒーローがヒットして
 母が聞いて『調子のいい曲ね』と気楽に振りを付けたんです。」
今から30年余前に可知さんのお母さんが生み出したのである。
動きは大きく4つ。
① 体の前で手拍子
② 右・左で手のひらを回す
③ 右回りに1回転したあとリズムをとる
④ 前進して手を高くあげる
すぐに覚えられるこだわりの振り付けが今の人気につながっている。
踊りやすさから人気は愛知県のみならず岐阜県にまで。
8月4日 岐阜 美濃加茂おん祭り。
4千人もの人が集まる盆踊り大会。
ダンシング・ヒーローがかかるやいなや大興奮。
パーティー会場のような盛り上がりになった。
2時間の盆踊り大会でダンシング・ヒーローは5回も流れていた。
(参加者)
「ぜんぶ好き!」
「ダンシング・ヒーローしかないですね。
 最高です!」
(盆おどり舞童代表)
「ダンシング・ヒーローを取り入れたのは20年くらい前で
 先代がとなり町から『楽しい踊りだ』と取り入れた。
 小学生にも教えたりしているので
 そういう積み重ねがこういう結果になったと思う。」
7月29日 愛知県一宮 一宮七夕まつり。
荻野目洋子さんが登場!
この盛り上がりはご本人も引き寄せてしまった。
荻野目さんご本人も地元のみなさんも大盛り上がり。
(荻野目洋子さん)
「盆踊りを初めて知ったのは2001年くらい。
 東海地区で踊ってくださっているということを。
 長年ダンシング・ヒーローを盆踊りで使ってくださって
 みなさんの夏の思い出として体にしみこんでいると聞いたので
 世代を超えてずっと続いていったらこんなうれしいことはないです。
 これからも街全体が元気になってくださるなら
 いいなと思いますね。」
夏を熱く盛り上げる「ダンシング・ヒーロー」。
みなさんも踊ってみませんか。



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北海道 夏の空港を支える人たち

2018-09-02 07:15:00 | 報道/ニュース

8月17日 おはよう日本


新千歳空港。
北海道のさわやかな夏を求めて大勢の旅行客が降り立つ。
そのころ駐車場は道内の利用者で常に満車状態。
(利用者)
「ぐるぐるぐるぐるまわって
 ようやく今空いたから。」
「探すのにひと苦労。」
このなかで常に動き回っているのが駐車場の誘導員である。
炎天下に加え車が発する熱を直に受ける。
(誘導員)
「いやもう汗だくですね。
 やっぱり去年よりは暑いですね。
 直射日光がきついので。」
暑さから解放される休憩時間。
つかの間の癒しはアイスキャンディー。
みんなでお金を出し合い
夏限定でストックしている。
(誘導員)
「おいしいです。
 これなかったら倒れるかもしれないですね。」
毎日 運転手の目の代わりとなるため
暑さに耐える。
(誘導員)
「空港施設を楽しんでいただいて
 旅行者については楽しい旅行をしていただけるよう努めています。」
分刻みで下りて来る飛行機。
到着するとすぐに出発に向けて準備を始める。
とくに早さを求められるのが機内清掃。
ある航空会社では安全確認を兼ねて客室乗務員自らが行う。
(客室乗務員)
「シートポケット内にゴミが入っていることが多いので
 すべて出してゴミが入っていないか
 あとはこうしたシートポケット内に入っている物が揃っているかをみて清掃しております。」
わずか17分。
6人で280席を1つ1つ掃除する。
息つく暇もない。
(客室乗務員)
「暑いですね。
 暑いです。」
ゴミを回収しているのは助っ人できた整備士。
さまざまな部署が助け合い
客が多い夏の定時運航を目指す。
1日420便が離着陸する新千歳空港。
滑走路はいつも酷使されている。
整備が行われるのは常に深夜。
色とりどりの灯りは飛行機の道しるべとなる航空灯火である。
作業員は季節を問わず長袖である。
(整備員)
「安全確保するために
 やっぱり腕まくりとかそういうものはしないようにしています。」
ネジのゆるみやひびがないか1つ1つ点検する。
最も大事なのは明るさ。
12km先の飛行機から確実に見えなければならない。
一方でガラス面はタイヤのゴムや海からの風ですぐに汚れてしまう。
拭く前と吹いた後
特にタイヤに踏まれることの多い中心線のライトは2週間おきに清掃する。
(整備員)
「タオルは意外と汚れます。
 既定の明るさをクリアした灯器を現場につけるので
 実際それを維持していかなければならない部分がある。」
パイロットにとってきわめて重要な灯り。
作業は明け方まで続いた。
真夏の新千歳空港。
利用客の笑顔の陰にはスタッフの見えない努力があった。




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活動的「隠居」

2018-09-01 07:00:00 | 編集手帳

8月16日 編集手帳

 

 ユニークな語釈で知られる三省堂「新明解国語辞典」で、
この字句を引くと少し明るい気持ちになれる。
【隠居】
<仕事や生計の責任者であることをやめ、
 好きな事をして暮らすこと>

他の辞書のように「静かに暮らす」などとは書いてはいない。
どこか活動的で開放的なご隠居像がよぎる。
瀬戸内海の島発のニュースに思い浮かべた。
どこからともなく現れた78歳の男性が、
行方不明の男の子を山中から見つけ出した。

山口県周防大島町の親戚宅に来ていた藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が三日三晩を外で過ごしながら、無事な状態で保護された。
沢の石に座り込んでいたらしい。

その理稀ちゃんを、
バスタオルにくるみ山から下りてきたのは大分在住の尾畠春夫さん。
本紙の取材によれば、
捜索難航の報を聞いて駆けつけたという。
65歳で魚屋を引退したあとは「世の中に恩返しがしたい」と、
新潟県中越沖地震や東日本大震災でボランティアをしてきた。
つい先日まで広島で家の泥出しを手伝い、
大分に帰ったばかりだった。

元魚屋のご隠居は人助けが<好きなこと>なのだろう。
はつらつとした老後を過ごされている。


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