Drマサ非公認ブログ

悲しみの哲学

 西田幾多郎の哲学には悲しみが流れている。家族の死や子供の看病が彼の生活を占め、そこから仏教的な境地の哲学が語られる。

 哲学は「気づき」「驚き」から生じると言うが、西田は「悲しみ」であると言う。

 西田は家族の不幸に見舞われました。しかしながら、その不幸さえも実は叡智界からの「贈り物」であったと解釈できる文章を綴っています。

 蓮如の「白骨の御文」を思い出させます。Wikiから引用します。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身[をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。https://ja.wikipedia.org/wiki/白骨_(御文))

 人の死を「早すぎる」「どうしてあの人が」と嘆きます。これは間違いなく人情です。けれど上記の蓮如からは、人の無常が語られます。人生は幻のようなものです。1万年も生きることもできません。その儚さが人間存在の前提でしょう。人が死ぬのは当たり前で、あたかも自然法則のようです。そういう場所に立脚します。しかしながらそれでも「早すぎる」「どうしてあの人が」との思いに覆われます。仏性でみれば、矛盾かもしれません。

 しかしながらです。その死は「贈り物」なのです。その証拠が悲しさや苦しさなのです。その深さを身にしみて、涙が溢れ出るのです。死を持って「早すぎる」「どうしてあの人が」との思いが生じること自体は、生きている時、人間の価値を知っていたとうことなのです。

 死さえも人間の価値を知る最大の機会なのです。少し斜めから見て見ると、人が死んでも悲しさも苦しさも、「早すぎる」「どうしてあの人が」との思いも沸かないとすれば、どうでしょう。その二人の間はどのような関係だったのでしょう。関係がなかったとしか言いようがないではありませんか。

 悲しむ自分を支える世界があることを知ることができます。西田哲学は、このような「贈り物」を贈ってくる叡智的世界があることを認識(悟る)します。これは阿弥陀様の慈悲という話と同じかもしれませんが、僕は別に仏教徒でもありませんが、悲しみが大切であることに気づけているかもしれないとも思うのです。

 楽しいこと、嬉しいことは、それに比べれば、大した重要なことではないのかもしれないと思うのです。今嬉しいのは、悲しみを知っているからでしょう。

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