Drマサ非公認ブログ

結婚について5

 ちょうど遠藤『結婚』は、その時代(1962)に書かれた作品です。前回までに記した結婚観——「恋愛感情」と「経済生活」を二本の柱として、その他の様々な要因を期待する考え方――からすると、遠藤著はちょうど現在複雑になっている様々な期待が少しばかり簡便化した形で、結婚の実態を見事に記しているように思います。

 それだけではなく、そもそも「結婚とは何?」という結婚の本質論に触れていると思うのです。その点で非常に優れた結婚論です。社会学的に見れば、遠藤が描く夫婦の群像は、少し古くさい家父長制的色彩が強く、女性差別的傾向が強いと思いますが、そこの部分は割愛して、ここからはできるだけ結婚の本質について、語ってみようと思います。

 ちなみに作者の遠藤周作は敬虔なクリスチャンです。イエスについての著作もあり、彼なりのイエス像は勉強になることが多々あります。ただ『結婚』に関して、キリスト教的な匂いは一切ありません。ちなみに僕自身はクリスチャンではありません。

 遠藤が取り上げた夫婦像を少し振り返って見ます。

「第五話 夫婦の損得」は、非常に示唆的な物語です。今風にいえば、イケメンではないし、パッとしないが、役所勤めはそこそここなしている一人の男。パッとはしていないのですが、じつは経済的には結構安定している人物です。その男とやはりパッとしない田舎者であることに引け目をもつ女が縁談の末、結婚。

 男は結婚したにはしたが、愛情というものもあまり感じず、淡々と結婚生活を送ります。しかし、女が白血病となり、先に逝ってしまいます。病院への見舞いも面倒であったし、死んだことに少しホッとしているというのが物語のおおざっぱな展開です。

 蛇足ですが、死んでホッとするということは、ボケ老人など高齢者の問題でもみられるありふれた光景になっているように思えますし、そこに本音があるとの斜めからの見方を人間論として見ることはありますが、程度の低い心理主義でしかありません。一瞬そういう想いが生じたとして、その想いがその人物の全人格を表すわけではないということです。人間は複雑です。

 さて、見舞いのなかで、夫婦の会話は病気で金がかかることでの損得勘定の話ばかりでした。女はそのことに引け目を感じてさえいます。損得勘定、つまり、「経済生活」に関する物語のように見えます。普通に考えれば、人情味のない酷い話なのですが、遠藤はこの二人が実は夫婦であることを見事に物語化しています。

 その部分が見えるのが、女の書き残した便箋です。女は元気であれば何でもしてあげられる。してあげられないので、苦しみを自身にあたえ、夫には与えないようにと綴ります。そして、「でも夫婦なんですもの。それだけでも私はうれしいので」と最期に書きおきます。さすがに薄情な男も、この女の言葉に心を動かされます。

 ここは目にみえない、普段は気づかない、二人の結びつきが浮き上がる場面です。僕たちは夫婦の結びつきを、目に見える強い絆であるとか、深い愛情といった、何か魅惑的で理想的な関係性を見いだせるものと信じていますが、それはまさしくひとつの理想像でしかなく、ある種の虚構です。

(つづく)

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