Drマサ非公認ブログ

本当の宗教

 昨日ボーッとしてテレビを見ていたら、なんだか韓国産の宗教を話題にしていた。世界中に広がっているとか、教祖が以前捕まったことがあるとか、その手口がどうたら・・とか。

 韓国自体が力をつけてきて、その内部で生み出された宗教が世界にも広がる。その意味で韓国に力がついた、そんなことなのかとも思う。統一教会もそんな感じで、米国でも勢力を伸ばしているし、指摘するまでもないが、日本でも多大な影響を与えてきた。今現在日本では転換するのか?そんな感じだ。

 宗教というと、なんだか不幸を取り除き、幸運を呼び込むものとでも思われているような気がする。僕自身はいわゆる無宗教ではあるから、宗教で幸不幸について語られると一歩引いてしまう。

 その極北が壷買って幸福だ、不幸の原因を取り除く。バカらしい。

 現生利益を説く宗教は多い。その願いを叶えるという宗教もまた多い。ただそれが宗教の本質ではないことだけは確かである。断言しておく。

 素朴な人々の実感では、無病息災や厄除招福などになるだろう。今なら金持ちになりたいか?

 それはブッタもまた命への恐れや不安から世の人々に平安をもたらそうと、仏教を教えられるようになったわけだから、同根にも見える。しかしながら、そこからの方向が違う。

 無病息災や厄除招福の方に向かうこと。ただ冷静になって俯瞰して見てもらいたい。金持ちになりたいとか、出世したいというのは欲望である。その欲望に振り回されていることを肯定しただろうか。それらは煩悩である。

 そこで単に煩悩を肯定する否定するということではなく、人間は煩悩なるものに振り回される存在であると、そういう事実を指摘しただけではないか。

 ここに2つの論理が見出される。煩悩から生じる欲望、人間の側からの欲望に答える力があるとする方向。現生利益の宗教。

 もう一方は、ただ煩悩に振り回される人間存在の有りよう。そこから、つまりは人間そのものが何であるかを知らしめる力がある方向。

 欲望に応える宗教と人間とは何かを明らかにする宗教。後者は哲学的・形而上学的になっていく。

 宗教というのは、この後者に本質がある。別に仏教ではなくとも、キリスト教だって、表現の質が違うにしても、人間そのものがなんであるのか、いろいろな人間があり、いろいろな行為があるが、それが最も人間であることはなんであるのか、そういうことが表現されているのだ。

 まあ落ち着いて生きていきましょうかねえ。

 

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