Drマサ非公認ブログ

20年前、田舎者の母親が東京にきた⑶:共同性論

 ふたつの母親の姿を描いて来た。一人は都会的な女性で、見ず知らずの僕の母親からかけられた声を拒否した。もう一方は沖縄の女性で、同様僕の母親との会話を楽しんだ。

 その昔、街中で赤ん坊を抱いている女性がいれば、当たり前のように声をかけていたと思う。そこでは、それが当たり前のことであった。多少の例外はあるだろうが、そのようなコミュニケーション空間が成立しているというのは、ここにいる二人の間に共同性が観察できる。だから、都会的な女性は共同性を少なくとも一部喪失しているというか、学習してこれなかった。

 社会という用語のもともとの意味は共同であるとか仲間である。大学で社会学を学ぶと最初に習うことである。この社会が仲間であるという意味において成立しているとしたら、取り上げたふたつの事例は好対照な反応を観察できる。

 都会的な女性は僕の母親を単なる「他人」とみなして、仲間であることを拒否している。つまりこのコミュニケーション空間は社会性を欠いている。強い言い方をすると、ここに社会はない。

 一方の女性とは共同性が立ち上がり、仲間のようなコミュニケーション空間が成立している。僕の母親からすれば、赤ちゃんを抱えている母親に声をかけるのは当然のことだし、沖縄の女性からすれば、僕の母親をあたかも「おばあ」のようにみなしているわけだ。

 二人はそんなことを意識することもなしに、そこに社会を構築している。仲間である。いつの間にか、日々のコミュニケーションを重ねるうちに、仲間であること、社会を見出すことを無意識的に学習し、実践している。ここに社会は存在している。仲間の反対は敵か無関係であろう。

 どちらか良い社会を意味するのだろう。社会の原義は仲間である。どちらも仲間という意識をしていないにもかかわらず、仲間であることを実践している。だから、答えは言わずもがなである。

 東京に住んでいて、赤ちゃんを抱えたお母さんに声をかけている光景を見ることはほとんどない。ひどいときには、赤ん坊がうるさいと言って、クレームをいう輩がいたり、そのようなことを気にしながら街中を歩いたり、電車に乗らなければならない状況でさえある。

 子供はもちろんその母親の子供である。と同時に、社会の子供なのである。

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