明海大学大学院応用言語学研究科

Meikai Graduate School of Applied Linguistics

研究紹介(佐貫繁‐理論言語学)

2010年01月26日 | 研究紹介
今回は、博士前期課程2年在籍の佐貫繁さんに、「理論言語学」について語っていただきました。じっくりどうぞ。

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研究紹介「理論言語学」

今日においてさえ、人間は自分の外と内に未解明な宇宙を抱えている存在に思われる。外の世界には、例えばブラックホールのように、人間知性の限界を超えて、広大で未解明な物理現象が存在している。我々は昼間の星は見えないけれど、見えないものが明らかに外界に存在していると理解することができる。その一方で、我々の内なる精神世界の方にも、多くの謎が潜んでいる。人間は、世界について思考し、宇宙について思いを巡らしているうちに、それを思考している自分達とは一体何なのだろうかを考えるようになった。何故現状の刺激からかけ離れて、我々は嘘をつくことができるのだろうか。どうして無限とかマイナスとか、神などといった、現実には目に見えないものを作り出すことができるのだろうか。何故、見えないものが存在していることを我々は認識することができるのか。チョムスキーは、人間ならば誰でもそういった事を可能とする能力が先天的に備わった形で生まれてきていると主張した。我々は人間であるが故に、人間の能力の限界を兼ね備えていて、人間知性の限界が故に、外にも内にも人類が解明すべき宿題を残したままにしているのである。このように、古来から神秘のベールに包まれてきた心身問題は、その解明を求めて、言語学に期待と関心を集めてきた。18世紀後半の脳科学者達は、現実を構成している全て現象は、脳が構成している一種の付随現象に過ぎないと仮定していた。言語学では、人間の内なる精神活動(心や脳、認知)を、言語を手がかりに明らかにしようとしていて、人間の可能性を追求する認知科学として今日の発展を遂げてきたのである。彼の主張は、これまで単に古くから伝統的な記述に偏重していた文献による実証のみならず、我々が普段何気になく用いている話し言葉の背後にも、人間特有の言語能力の解明を求めた点で、言語を歴史学の視点からだけでなく、生物学点な視点にまで研究対象を拡張することを可能にした。人間は何故、言葉を話すことができるのか(言語能力の解明)。人間は何故、どのようにして言葉を用いるのか(言語使用・運用の解明)。人間はどのように言葉が用いられるようになるのか(言語獲得・言語習得の解明)。その言葉を用いる際、脳の中では物理的に何か起きているのか(脳の解明)。現代の人間にどのように至ったのか(言語進化の解明)。チョムスキーの画期的な研究指針に影響を受けながら、多くの他の研究領域は心身問題の解答が言語学にあるかもしれないという期待を胸にこの分野に関心を向けてきたのである。人間の目に見えない精神活動の解明に、この言語学が貢献するように思われたからである。このことから、今日の言語分析では、人間の解明のために仮説が構築されているのであって、もはや乱雑に単なる記述や分類をしているわけではない。詳細すぎる説明を与えることは、むしろ人間科学からかけ離れることにつながってしまう。そもそも、記述や一般化が多くなればなる程、人間の言語獲得や言語習得は、複雑かつ多彩なものとなり、人間が言語を習得することが困難になるからである。従って、説明が増えれば増える程、逆に非現実的で分かりづらくなるものなのである。我々は、個々の記述があまりにも詳細過ぎるので、3歳の子供が到底成し遂げることができない程の記述的な説明を、理論内に与えることはできないように、その理論に拘束されているのである。だとすれば、法則性を個々の事例にのみ捉えるのではなく、人間レベルの最も一般的な形にまで抽出することで、幼児でも達成可能な程、単純な形で説明力を保持し、全ての人間に当てはまる程までに研ぎ澄ましていく必要があったのである。従って、余分で複雑かつ多岐に渡る記述的な説明は、非人間的・超人的な理論と化してしまうのを避けて、チョムスキーは説明理論の単純性を模索してきた。もはや今日、言語特性として、何が中核となっているのか、何が例外的なものなのかを考察することは、言語学における人間の解明を成し遂げる為、不可欠な作業となっている。しかしながら、このことから歴史的な皮肉をもたらしてきた。法則性を単純化するために抽象的な形で還元すればする程、単純かつ華麗な形で理論を構築できるにも関わらず、抽象度が高い説明が進行し過ぎた為に、世間一般の人には理論理解が困難なものになってしまった。もはや今日の言語理論の発展において、専門用語は容易に理解できるものではなくなっているかもしれない。我々は人間の根本的な問いを掲げ、実質的な研究プログラムを全面に打ち出しておきながら、言語研究として分析する際には取っつき難い程、抽象化に抽象化を重ねてきた説明の弊害に直面しているのかもしれない。生成文法を専門にしている者は、抽象化されて理解しにくくなった文法用語に忍耐しながら、その用語に飲み込まれずに、先人達の仮説をもっと妥当なものへと再構築していくことが求められている。そもそも人間は自分の生が歴史の途中に産み落とされたことに、後になって気がつく存在であり、研究書を一ページ目から読み進めたつもりが、実はその本の物語は既に始まっていたことに後々気がつくような過程なのである。先人達の仮説を検証することで、仮説の再構築を自分なりに模索することができるようになる。我々は言語能力に制約されているが故に、言語能力を超えた特性を仮説として想定することは出来ず、超能力を解明することは人間科学からの乖離になるのである。人は誰もがIQとは無関係に先天的な能力によって言葉を話せるようになるのだとすれば、言葉の習得は先天的な能力の後押しと支援で達成されているが故に、もはや言語能力は学ばれるものなのではなくなる。全ての言語に見受けられる特性は、予め人間が生まれながらに種として備えていたと想定することが妥当かもしれない。何故ならば、違った環境で育った人間が同じ特性に制限されていることは単なる偶然のはずがないからである。むしろ、母語の獲得は学びたくなくても、誰もが日本で生きていれば日本語を、英語圏で生きていれば英語を話せるようになってしまうものかもしれない。外国語学習では、その母語獲得の何がしかの影響を避けることができないし、そうだとすれば、言語学習の後天的な特性は先天的な特性の支援に基づいているということが言える。だとすれば、我々は結果に至る原因と理由が知りたくなるはずである。何故、誰もが言語能力を獲得し、外国語学習を支援する結果をもたらすことができる母語獲得を達成しうることができるのか。その言語能力の先天的な特性とは一体どういったものなのだろうか。どこまでが人間の先天的能力で、どこまでが後天的な社会環境の要因で影響を受けているのだろうか。これを解明しない限り、人間はいつまでも人類の宿題を片づけることができない。もはや今日、人間が現代の人間に至るために何万年もかけて進化してきた言語の本質的特性を、言語の社会環境だけで説明しようとするのには到底無理があるという見解に至ることになる。こうして、人間研究は、仮説を積み上げては解体し、築いては解体し、人間が備えているであろう妥当性の追求を繰り返してきた。全ての人間言語に対応できる普遍文法の模索は、3歳の子供でも遂行できるはずの最も単純な形にまで制限され、複雑で余分な仮説をことごとく単純化してきたのである。言語科学の真髄を求めて、全ての普遍文法の特性を人間レベルの観点から説明しようと、生物言語学が台頭してきた。一方で、ある言語にしか見られない普遍的ではない例外的な特性や、さらには変化を受けやすい言語特性などは、社会環境の観点からの説明に委ねられてきた。我々が言語分析を行う研究テーマの言語現象は、本人の予想以上に、実は非本質的で周辺的なもの、あるいは多角的なアプローチが必要であることに後々気がつくことになりうるのである。言語現象が理論の中でどういった形で整備され制限されるべきものなのかを認識していない限り、単に闇雲に宇宙を解明しようとしているのに過ぎないからである。では、宇宙を解明していくのに、どういったやり方を我々は採用すべきなのか。その問いへの解答を与えてくれるのが、理論検証だと思われる。我々の分析は何がしかの理論に拘束されているのであって、理論とは無関係だ
という学者も、実は理論とは無関係に思われる理論に制約されているのである。従って、様々な理論が混雑している今日の言語学において、だからこそ理論の検証が不可欠であるように思われる。その理論が何を目的として掲げていて、どのような制約に拘束されているのかを認識しつつ、より妥当な理論を考察し続けることが宇宙を解明していく上での、ささやかな抵抗なのである。以上、理論言語学が何をしてきて、何をもたらすのかを大まかに述べてきた。

佐貫 繁

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