
先日友人と長電話を(また
)した折のお話。
彼女とは、2年前に亡くなった友人が結んでくれたご縁。
彼女も私も仲間たちもこどもの教育活動を別のところでしているが、そういうものたちが今
それら、たての活動を横につなげる活動を1年前から始めた。
その仲間の、共通する友人の支えている保育所のお話となった。
先日演奏に伺った田舎の保育所(学童保育もしている)がそれである、無認可で母親・父親・保育者の手で立ち上げ、今もそこを支え続けてられているのですが、どこも一緒で 立ち上げた者が今もかかわり
資金稼ぎの為にぜんぜん関係のない、バザーや魚の行商なんかもしている。
彼女のそんな現状をわたしはしらなかった。
というのも、彼女はそんなみんなの支えで成り立ち、こどもたちが喜んでいることそのものを喜びとしているからである。
私も自分のこども達のために勉強会から立ち上げた幼稚園に 5年前まで関わっていた。(関わりはじめたのが14年前。 園は12年の時を刻んだ)
立ち上げに関わったのは、私と同じ位の年(今40代その頃は20代後半~30代)か上の世代の方がた(今50代)がんばる!が心情の方がたばかりである。
きっと今の50代から30代後半くらいの教育が、競争と頑張ることで成果があり頑張ることがいいことだ!(こどもの時はやりの宣伝文句にもありました)の時に生きた。
そして50代以上はもっと頑張らねば生きて行くことさえ困難な時であった。
ただ、この40代と50代に共通する頑張るも質が違っているような気がする。
40代は頑張れば誉められた。だから頑張っている姿を強調しがちに思える。
50代以上は、頑張っているところは、人に見せないことが美徳のように動かれる
そして、30代中半以前と20代は、がんばりすぎないで個としての特性、個性を大切にされているように見える。
娘達20代前半~10代は、むしろ頑張らないあるがままでいいとするところ。
ゆとりの教育なんかを見ても、親もそういうことを望んでいた時代。
無理をして頑張るのはよくないようにさえ思う。(それでいいと今私は思っている
)
これは、私と友人の見解でたわごとなのでお許し願いたい。
その世代のギャップを、会や組織を運営しているとなかなか大変さを感じるわけである。
どの生き方が正しいとも間違っているとか、いいとか悪いとかとも私は言えない。
それぞれが、その時の教育や時代のニーズでそうなっているのだから。
必要としてそうなっていたのだろう。
これをそれぞれの年代で「今のわかいもんは・・・」とか「その考え方堅くてふっる~」となると、当然摩擦が起きるわけです。
会を運営する資金とする、バザーひとつするにしても、40代(現在40代 その当時は30代でこどもの手が離れた)50代(現在50代 その当時40代)は寝る間も惜しんでやる。
若い人たちは、できない状況(小さい子をかかえ) 50代(現在)の方が「今は出来ないだろう状況だから、出来る時にやったらいいのよ」と声賭けをするし、そう思っている。
40代(現在)は「すみません・・・いつか必ずお役に立ちます」会は守ります!
若い人は その頑張っている人たちを目の前で見ているのがつらいらしい。
それ以下は・・・がんばらなくてもいいのに・・・やめちゃえば・・・となる。
この文章を読まれても、きっとその年代に応じた感情の動きがあるのかもしれないな・・・
しかし・・そうは言っても、世界から見ると がんばれない若者と言えども、まだ頑張っているのが日本である。
若い方たちが 「支えるために こどもの家庭でのあり方や いつもやりたくないことをして精神的にいらいらしてたら、何のための教育かわからない」という主張はもっともである。
たしかに・・・立ち上げるために、ひょっとしたら我が子はほったらかしになった時期もあったのは確か。
その後姿で学んで欲しいなんてエゴもあったことも確かである。
その時の関わる人たちのバックグランドを自分の枠にはめると、他者も自己も苦しくなる。
今まで心血を注ぎ(大げさですが)こどものように思っていたもの、事を
わたしもその時必要なことを その時の人たちに任せようと手を離した。
仮に資金が立ち行かなくなり、つぶれたとしても、それはその時必要でなくなったものとして思える。
そして新しい道を歩き出した。
喜びできることだったから。やりたかったから。自分も人も生かされる。
がんばってうれしくわくわくする人は頑張ればいい。
ただ、人に押し付けない。
頑張らない人を斜めに見る自分が存在するのなら、きっと頑張りすぎているのかもしれない。
ほんとうにそうしたいことなら、自然とまわりがどう動こうが気にならなくなるものである。
枠を外す 外せるのは自己以外ない。
他の人がこうなったら いいのに・・・はエゴだったりして。
違うことを違っていいと見れないのなら、離れるのもいい。
渦中では見えないことが見えてくる。熱くなったものを冷ませる。
そして新しく始めればいい。
消耗しきって終わるのでなく、新しく始めるための憩い ブレスです。
それぞれの違いがそれぞれに生かされるために。
みんなちがって みんな いい!
ありがとうございます。

彼女とは、2年前に亡くなった友人が結んでくれたご縁。
彼女も私も仲間たちもこどもの教育活動を別のところでしているが、そういうものたちが今
それら、たての活動を横につなげる活動を1年前から始めた。
その仲間の、共通する友人の支えている保育所のお話となった。
先日演奏に伺った田舎の保育所(学童保育もしている)がそれである、無認可で母親・父親・保育者の手で立ち上げ、今もそこを支え続けてられているのですが、どこも一緒で 立ち上げた者が今もかかわり
資金稼ぎの為にぜんぜん関係のない、バザーや魚の行商なんかもしている。
彼女のそんな現状をわたしはしらなかった。
というのも、彼女はそんなみんなの支えで成り立ち、こどもたちが喜んでいることそのものを喜びとしているからである。
私も自分のこども達のために勉強会から立ち上げた幼稚園に 5年前まで関わっていた。(関わりはじめたのが14年前。 園は12年の時を刻んだ)
立ち上げに関わったのは、私と同じ位の年(今40代その頃は20代後半~30代)か上の世代の方がた(今50代)がんばる!が心情の方がたばかりである。
きっと今の50代から30代後半くらいの教育が、競争と頑張ることで成果があり頑張ることがいいことだ!(こどもの時はやりの宣伝文句にもありました)の時に生きた。
そして50代以上はもっと頑張らねば生きて行くことさえ困難な時であった。
ただ、この40代と50代に共通する頑張るも質が違っているような気がする。
40代は頑張れば誉められた。だから頑張っている姿を強調しがちに思える。
50代以上は、頑張っているところは、人に見せないことが美徳のように動かれる
そして、30代中半以前と20代は、がんばりすぎないで個としての特性、個性を大切にされているように見える。
娘達20代前半~10代は、むしろ頑張らないあるがままでいいとするところ。
ゆとりの教育なんかを見ても、親もそういうことを望んでいた時代。
無理をして頑張るのはよくないようにさえ思う。(それでいいと今私は思っている

これは、私と友人の見解でたわごとなのでお許し願いたい。
その世代のギャップを、会や組織を運営しているとなかなか大変さを感じるわけである。
どの生き方が正しいとも間違っているとか、いいとか悪いとかとも私は言えない。
それぞれが、その時の教育や時代のニーズでそうなっているのだから。
必要としてそうなっていたのだろう。
これをそれぞれの年代で「今のわかいもんは・・・」とか「その考え方堅くてふっる~」となると、当然摩擦が起きるわけです。
会を運営する資金とする、バザーひとつするにしても、40代(現在40代 その当時は30代でこどもの手が離れた)50代(現在50代 その当時40代)は寝る間も惜しんでやる。
若い人たちは、できない状況(小さい子をかかえ) 50代(現在)の方が「今は出来ないだろう状況だから、出来る時にやったらいいのよ」と声賭けをするし、そう思っている。
40代(現在)は「すみません・・・いつか必ずお役に立ちます」会は守ります!
若い人は その頑張っている人たちを目の前で見ているのがつらいらしい。
それ以下は・・・がんばらなくてもいいのに・・・やめちゃえば・・・となる。
この文章を読まれても、きっとその年代に応じた感情の動きがあるのかもしれないな・・・

しかし・・そうは言っても、世界から見ると がんばれない若者と言えども、まだ頑張っているのが日本である。
若い方たちが 「支えるために こどもの家庭でのあり方や いつもやりたくないことをして精神的にいらいらしてたら、何のための教育かわからない」という主張はもっともである。
たしかに・・・立ち上げるために、ひょっとしたら我が子はほったらかしになった時期もあったのは確か。
その後姿で学んで欲しいなんてエゴもあったことも確かである。
その時の関わる人たちのバックグランドを自分の枠にはめると、他者も自己も苦しくなる。
今まで心血を注ぎ(大げさですが)こどものように思っていたもの、事を
わたしもその時必要なことを その時の人たちに任せようと手を離した。
仮に資金が立ち行かなくなり、つぶれたとしても、それはその時必要でなくなったものとして思える。
そして新しい道を歩き出した。
喜びできることだったから。やりたかったから。自分も人も生かされる。
がんばってうれしくわくわくする人は頑張ればいい。
ただ、人に押し付けない。
頑張らない人を斜めに見る自分が存在するのなら、きっと頑張りすぎているのかもしれない。
ほんとうにそうしたいことなら、自然とまわりがどう動こうが気にならなくなるものである。
枠を外す 外せるのは自己以外ない。
他の人がこうなったら いいのに・・・はエゴだったりして。

違うことを違っていいと見れないのなら、離れるのもいい。
渦中では見えないことが見えてくる。熱くなったものを冷ませる。
そして新しく始めればいい。
消耗しきって終わるのでなく、新しく始めるための憩い ブレスです。
それぞれの違いがそれぞれに生かされるために。
みんなちがって みんな いい!
ありがとうございます。
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