《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

革命的奥菜主義者同盟もP.Fドラッカーの『マネジメント』を読んでみた!

2010年05月04日 20時19分14秒 | Weblog
エッセンシャル版ですけど。

(中略)しからば、「野球チームとは何か。何をなすべきか。機能は何か」

野球部女子マネージャーは「甲子園に行くこと」と定めた。
これはドラッカーの正しい意志の反映であろうか。
ドラッカーが組織に求めんとした「何か、何をなすか、何を成果とするか」に合致するのであろうか。

(夏の)甲子園に出場するためには、予選開始以降、一つも負けることはできない。
つまりそのチームは嫌でも『常勝』とか『不敗』とか『勝利』を目標、成果の判断基準にするということになる。



ドラッカーは言う。「科学としての姿勢」において。

「活動からリスクをなくそうとしても無駄である。現在の資源を未来の期待に投入することには、必然的にリスクが伴う。まさに(中略)進歩とは、リスクを負う能力の増大であると定義できる。リスクをなくす試みはもちろんのこと、リスクを最小にする試みさえ、リスクを非合理的で避けるべきものとする考えが底にある。だがそのような試みは、最大のリスク「硬直化のリスク」を冒していると言わざるを得ない。経営学の主たる目的は、正しい種類のリスクを冒せるようにすることでなくてはならない。」


そう、だから「勝利」を目指すチームは連敗を止めた翌日から、さらに深刻な連敗をスタートさせがちであり、
連勝が止まると、悪夢のような連敗地獄にはまってしまうのである。


野球に限らず、勝敗を争う競技においては、「負け」は当然あり得べきリスクである。
そのリスクの存在を認めなんという甲子園大会は競技への冒涜ではありゃしまいか。
競技者および観戦者にはカタルシスを与えるかもしれんが。

そういうことについては
「公民権とクエーカーの良心」ですでに明らかにされているとおり、
マネジャーの係わるべきことではないということだ。


リスクを負う能力を増大させるマネージメントは勝率の管理あるのみである。

負け試合を作るというのはリスクを負う能力を増大させることにはならない。以後の試合において、勝たねばならないというリスクが増大し、目論見ほど戦力の温存にはならない。

常に勝とうとするのではなく、意識的に負ける試合を作るのでもなく、勝率を管理していく。何か言葉の遊びを弄しているように思われるかもしれないが、そんなことはない。
バッターがねらい球を変えたり、ピッチャーが勝負球を変えたりできるのは、リスクを負う能力について、勝ち負けや点差に関係なく、それを意識しているからではないだろうか。
そしてそれは、次の対戦のためであることも多い。



ここなんですわー。ドラッカーの恐ろしいところは。
ワタシ、ここ27年くらい、野球とか、軟式野球とか、やってまヘン。
職場レクのソフトボールいいところ。

それでも、ドラッカー読んだら、数日で、こんなことが言えるようになる。恐ろしいワ-。

今後はドラッカー読んで、こないなことほざくようになった奴に、経済的にも、心理的にも、倫理的にも、欺されんようにすることが大切やわな。
だから『マネジメント』は読んで奥菜晴れ。



さて、ワタシは詐欺師か、そうではないか。



『だが、ここに大きな誘惑がある。哲学者たらんとする誘惑である。ここで強調すべきことは、「よいことを行う」ための基礎は、「よく行うこと」である。「よき意図」は無能のいいわけに過ぎない。』

沖縄に向かわれた鳩山氏に献ず。