大佗坊の在目在口

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小田原 富水駅から栢山駅へ

2017-03-16 | 小田原

小田急線富水駅からブラブラ歩いて15分位で尊徳記念館に着く。途中、山門脇に五輪塔・宝篋印塔が綺麗に並べられていた光明寺に寄る。摂取山光明寺の創建は文明五年(1473)、天野三郎兵衛康景の墓がある相模沼田の西念寺の末寺だという。
 
 
この辺は、室町時代から戦国時代にかけて多くの戦いがあったところで、どんな武士たちが葬られているのだろうか。墓地に古い五輪塔があった。旧堀ノ内村の名主だったの平塚氏一族の墓域だろうか。
光明寺の近くにある若宮八幡宮は隣村飯田岡に祀られていた若宮八幡宮を文和中洪水の後、堀ノ内村に遷座したと堀ノ内村八王子社元禄五年(1692)の棟札にあるという。
 
 
栢山にある尊徳記念館は3階建ての立派な建物でビックリしたが、尊徳の資料や遺品を展示しているのは1階で、2・3階は会議室や宿泊室を備え、講座、サークル活動等の生涯学習活動の場として利用しているという。記念館敷地内に二宮尊徳が十六歳の一家離散の際に売り払われた生家が尊徳の誕生の地に復元されている。木造平屋建 茅葺で、間口7間(12.74m) 奥行4.5間(8.19m) 床面積31.35坪(103.6㎡)で、かなり大きい家だが、この地方の中流農家の典型的な大きさだと言う。
 
 
二宮家の菩提寺、善栄寺に向かう途中にある「蕎麦月読」で昼食にした。初めての店だったので、分からなかったが、次から次と入ってくるお客さんは皆、蕎麦を大盛で注文している。天ぷらも蕎麦も美味しかったが、お蕎麦の量が少なすぎた。
 
風土記稿に「善榮寺 如意山と號す、曹洞宗、大住郡日向村石雲寺末、開基は木曽義仲の妾巴女なり、牌一基あり、法號善榮寺如意貞信と記す、源平盛衰記を按ずるに、巴女は義仲没落の後、信濃國に落下りしを、鎌倉に召上せられしが、和田義盛申請に因て、彼が妻となり、朝比奈三郎義秀を産む、和田合戦に義秀討れて後、越中國に往き石黒某を頼み出家し、九十一にして死すと云」、さらに「 天文廿三年(1544)北條氏康の室、元亀二年(1571)十月三日卒、牌を置。 法號瑞渓院光室宗照と記す、僧宗忻を請て再興あり」とある。巴御前が何所で木曽義仲と別れたかハッキリしない。巴御前が和田義盛と再婚したというのは物語として面白いが信憑性は乏しいと言われている。
 
本堂前に木曽義仲と巴御前の五輪塔があった。説明には「木曽義仲公側室當寺開基巴御前之墳」とある。いつ五輪塔が建てられたか不明だが、今ある二基の五輪塔は明治十一年三月に再建されたという。牌一基は、法號善榮寺如意貞信と記す位牌が有ったと云う事ではないだろうか。
 
荒廃していた善栄寺を天文二十三年(1555)、三代北條氏康夫人瑞渓院が再興して曹洞宗に改宗している。瑞渓院殿光室宗照大姉の彫銘文字がある宝篋印塔が本堂横の墓地にあった。市によると江戸時代に造立されたという。
 
近くに二宮一族の墓域がある。
 
二宮一族の墓域にもあったが、同じ形をした廟墓(石堂・石殿)が多く残っていた。屋根の形と箱形の本体部分の造りで、その地方の特長がある。米沢の上杉氏菩提寺、春日山林泉寺に万年塔と呼ばれる廟墓が残っている。小田原にある廟墓は切妻屋根が多いように思う。
 
 
栢山神社を通って栢山駅に向かった。
 

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