美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

MMTの変わり種・モスラーの『経済政策をめぐる7つの嘘っぱち』を訳してみました(その40)

2019年11月01日 17時41分00秒 | 経済


*モスラ―は、ドル・ショックがあった1971年という激変期に大学を卒業しています。

パートⅡ 発見の時代

私は、1949年9月18日にマンチェスター記念病院で生まれました。両親は、ダニエル・モスラーとムリエル・モスラーです。私は、その三人の子どもの年長者でした。弟のセスは1951年に、妹のスーザンは1955年にそれぞれ生まれました。1960年に47マリオン・ドライヴの三つの寝室がある家に引っ越すまで、ウエスト・ミドル・ターンパイクのアパートに住んでいました。その家を売るまで約三年間そこに住んでいました。そうして、経済的な理由で、近くの借家に引っ越しました。私は、ワデル学校に通っていて、引っ越した後はバクレー小学校に通いました。その後、イリング中学校、マンチェスター高校に通いました。当高校は、父が1937年に卒業しました。

我が家は、マンチェスターの典型的な中産階級の家族だったように思われます。父は、経理担当者として働き、酒屋の管理を担当し、生命保険を売り、納税書類の作成を担当していました。母は、登録看護師で、マンチェスター記念病院で夜勤をしていました。

たぶん八歳のころだったと思うのですが、自分の車の具合がよくないのをなんとかしようと思い立ちました。古い芝刈り機を分解してバイクとゴー・カートを作るのにその部品をいろいろと利用しました。溶接されたものなら何でもゲットするのは、とてもぜいたくなことだと思われました。たぶんいまでも、一九五五年から七五年に作られたアメリカ製の車なら一目見ただけでその名前を言い当てることができると思います。歩道に座り込んで、弟と、走っている車の名前の言い当てっこをしたものです。

高校時代、いろいろなバイトをしました。一日キャンプをしている子どもたちに泳ぎを教えたり、地方のデパートで働いたり、芝刈りをしたり、隣の雪かきをしたり、いろいろです。

高校時代は中くらいの成績でした。しかし教師たちから、一生懸命に頑張ればぐんと成績が上がる“ポテンシャル”がある、と言われました。アメリカの多くの高校生は、そういうふうに言われますけどね。で、SAT(大学進学適性検査)は、数学700点、口頭試験600点でした。自分としては、まあまあという感触でしたが。

1967年に高校を卒業した後、コネチカット大学という公立大学に入学しました。というのは、そこは地元の住人なら年間たったの300ドルの学費で済んだからです。私は、地方の組織からエンジニアリングを勉強するための1000ドルの奨学金と計算尺とを受け取っていたので、最初の二年をエンジニアリングを学ぶ者として過ごしました。その後、専攻を経済学に変え、1971年にBA(文科系学士号)を取得しました。1971年といえば、たまたま悪い年で、当時のニクソン大統領は、価格と賃金の抑制を実行し、金とドルとの交換を停止しました。

*1971年8月の、アメリカ経済立て直しのためのいわゆるニクソン・ショック(ドル・ショック)です。これをきっかけにドルの価値が急落し、ドルを基軸とする、1ドル=360円の固定相場の国際通貨制度(ブレトン=ウッズ体制)が崩壊しました。71年12月、スミソニアン協定により、ドル切り下げと円切り上げによる多国間通貨調整が行われ、1ドル=308円という新レートでの固定相場制復帰が図られました。しかし、アメリカの国際収支赤字は改善されず、73年に各国は変動相場制に移行し、76年のキングストン協定で追認されました。それをキングストン体制と呼びます。私見によれば、ニクソン・ショックは、それによって貿易立国という国家の経綸がきわめてリスキーなものになったので、国内経済の充実に大きく舵を切るべききっかけととらえるべきでした。日本政府は、その視座からブレてはならなかったのです。

ドル・ショックをきっかけに、アメリカは不況になり、インフレは3%になり、フランスは、フォート・ノックス(米国金塊貯蔵所の所在地)から金の拠点を撤収しようとしたのです。

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