MY LIFE AS A DOG

ワイングラスの向こうに人生が見える

ゴダール革命

2006年07月10日 08時16分26秒 | 読書
蓮實重彦氏の「ゴダール革命」という本を、いまだ衰えない蓮實節に妙な懐かしさを覚えつつ読んだ。

僕が高校生の頃に“リュミエール”という映画雑誌が創刊された(現在は休刊中)。その雑誌の責任編集をしていたのが蓮實氏だ。当時、まともな映画雑誌というとせいぜい“キネマ旬報”くらいしかなかった時代に、この“リュミエール”の登場は大きな衝撃だった。

ちょうどそのころは、ニューアカデミズムなどと言われる新進気鋭の知識人たちが論壇に続々と登場し、且つ、もてはやされていた時代である。本屋に行くと浅田彰の「構造と力」などが一般図書部門のベストセラーとして店頭に平積みされていたりしたものだ。

当時、「そんなに流行っているのなら」と思い、「構造と力」を購入したが、もともと「構造主義」という言葉の意味すらよく知らなかった僕がまともに読み進められるわけもなく、結局、半分も読まずにあえなく撤退した記憶がある。
しかしその後も、僕は性懲りもなく、西部邁、中沢新一、柄谷行人など、当時の論壇の寵児とも言うべき人物の本を片っ端から手に取った(そして多くは挫折した)。その中の一人に蓮實重彦氏もいた。

当時どこにでもいるごく普通の「映画好きの高校生」にすぎなかった僕にとって、蓮實の映画評論はまさに青天の霹靂そのものだった。

「(ゴダールの)『東風』は、作品としてのまぎれもない完結性によって、言い換えればフォルムそれ自体の自律性によってあらゆる連帯を拒絶し、かえって情念の流れの円環的閉鎖性を鋭利な刃物で断ち切りながら、俗にヨーロッパの合理思想と呼ばれる大がかりな精神のサボタージュによって失われていった科学する理性を回復せんとする試みである。その試みの一環として、ゴダールは、われわれにとって映画とは何かという問いかけが含む擬似主体たる「われわれ」の空洞性を空虚なまでに剔出しながら、改めて映画にとってわれわれは何なのかと設問しなおし、遺産として祖父たちから継承した映像と音響とを豊富に自分のものとしつつ、みずから映画たることへの志向をかつてなく鮮明に語りかけているのだ」

今読んでも、何を言いたいのかさっぱりわからない文章であるが、当時高校生だった僕には、これが文句なく刺激的だったわけだ。

浪人時代。蓮實が、東京大学で映画の授業を受け持っているという話を聞き、友人数人とともに、彼の授業に潜る計画を練った。しかし、当時の噂によると蓮實は「少なくとも年間に100本以上の映画を(映画館で)観ていない人間は自分の授業に出る資格はないし、仮に出てきても授業には絶対についてこれないだろう」と高らかに宣言していた。結局、この宣言に恐れをなした僕達は、計画を中止せざるを得なかった。

(ちなみに、蓮實の当時の授業に出席した事のある方が、ご自分のブログにそのときの模様を書かれていますので、興味のある方はどうぞ。)
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2006/04/post_34c7.html
http://homepage.mac.com/cron/iblog/C1790922926/E20060415015940/index.html

高校生の頃から比べると多少なりとも読解力がついているとはいえ、時折顔を出す蓮實節にはいまだに当惑させられることが多い。しかし、そのような思い出もあって、この本は随分と懐かしい気持ちで読むことができた。

(本の内容についても何か書こうかと思ったのですが、長くなりそうなので次回以降、気が向いたら書くことにします。)

おわり。
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