私の父と私の娘の絆は、特別なものだった。
わたしがそこに入れない特別な符牒のようなものが二人にはあった。
父が脳梗塞で倒れたあと、娘は自分の責任だと、たった一回だけ小さくつぶやいた。そのことが娘を自死に追いやった気がしてならない。
娘の死後、父は孫の死をしらないまま10年間、ケア施設で過ごした。そして昨年の8月、ようやく妻と孫のもとへと旅たった。
娘のことで父に嘘をいうのがつらくて、わたしは父に会えなかった。父のもとに行くとわたしははげしくパニックを起こした。
そんなわたしに弟は「親父のことは僕が最後までやるから、姉貴は何もしなくていいよ。自分の回復だけ考えていていいよ」といった。
弟の介護は本当に献身的だった。土日だけではなく、父の調子が悪いときは仕事の前にケアハウスに寄って世話をした。妻には父のパジャマや下着の洗濯もさせずに、何から何までたった一人でやった。
父が熱を出すと、出張先の大阪から弟はすぐに戻った。アメリカ出張の前に熱を出したときなどは、父のハウスに泊まりこみ、そこから成田へ向かった。
弟がアメリカに長期転勤になると決まったとき、父は「俺が死ぬまで(日本)にいてくれよ」と言ったという。
アメリカに行っても、月に一度は日本出張の機会を作り父のもとをおとずれた。無理やり出張の機会を作るのは、すごくたいへんなんだ、と弟は言っていた。
父が危篤となった日、弟はアメリカに帰ったばかりだった。わたしが慌てて病院に向かう。父と会うのは10年ぶりだった。だが、間に合わなかった。身体はまだ温かかった。「お父さん、ごめんね」と何度も心のなかでつぶやいた。
父の荷物を整理していると、弟がアメリカから送ったFAXを見つけた。看護婦さんが「そのFAX、お父様はずっと大事に枕の下に入れていたんですよ」といった。
高熱を出してケアハウスから病院に入院したとき、弟がアメリカから担当の医師に電話したら「食事をまったくとらないんですよ」と言われた、そのときのものだ。
「親父へ
入院が長引いているので心配しています。食事もあまり食べていないとのこと。
何よりも栄養をとらないと体も回復しませんから、食事はなるべくとるようにしてください。
11月30日から12月7日の間、日本に出張します。
それまでに少しでもよくなることを願っています」
このFAXを読んで、わたしは号泣した。父が不憫だった。弟に申し訳けなかった。ごめんね、お父さん、そして弟・・・・・
あれから一年、弟の出張は年に3,4回になった。毎月帰ってきたことの努力をあらためて思う。
弟には心底感謝している。そして、謝りたいたいと思っている。だがまだ気恥ずかしくて、口に出していえない。一度だけ弟と二人になったとき言おうとした。「あのね、わたしは本当にあなたに・・・」そこまでいうと、弟は言った。「いいよ、言いたいことわかるから」。弟も気恥ずかしかったのだろう。
だからわたしはここに書く。
わたしの弟、尚哉くん。本当にありがとう。あなたがいなかったら私は気が狂っていたと思う。父親のことだけじゃなく、娘が死んだときあなたは泊まりこんで、私のことも献身的にケアしてくれた。ありがとう。言葉に書ききれないぐらい感謝しています。長生きして、たくさん良い思いをしてください。
わたしが死んだら、このブログの存在を誰かが弟に伝えてくれるはずだ。
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