TOKYO ⇔ SAIGON そしてたくさんの街へ

東京とサイゴン、そして、いろいろな街を巡ります。

思い

2008-02-27 | Weblog
最近、思い残すことがひとつひとつなくなっていくような気がする。

なぜ多くの人が「今」に執着するのだろう?叶わなかったことがあっても、別に次回の人生でも良いじゃん、と思うのだ。

娘を自殺で亡くした、という経験は大きかったかもしれない。

彼女とは多分、前世でも会っているような気がするのだ。おそらく娘は前世ではわたしの親あるいは恩師。とにかく目上の人だ。だから、彼女が先に死んで当然なのだ。

前世でわたしは、親あるいは恩師のいうことをまったく聞かないで、自分勝手なことばかりしていたに違いない。そしてその業のため、わたしはどこかで頓死する。

親あるいは恩師は、さぞかし悔やんだことだろう。自分がもっとちゃんといろいろなことを教えていれば、と。

だから今回は娘として生まれてきた。そして今度は先に死んで、今生こそはわたしをまともな人間にするミッションを持っていたに違いない。

それはおそらく成功したと思う。

今、わたしは幸福だ。そして無駄な欲がまったくなくなった。二時間後に死んでも後悔しないといつでも思っている。

じゃあ、わたしは投げ出して生きているかというとそうではない。今、今日、明日、できることを思い残すことがないようにやろうと思っているからだ。

いや、正確にいうと思い残すことはあった。

ひとつは父のこと。父をきちんと私が看取らなければと思っていた。でもそれは、父の愛情のおかげでなんとか達成できた。

もうひとつは先日の日記に書いた「もう一人の父」のこと。その方に会わないでいたら、わたしはきっと思い残した。

最後のひとつ。大好きで大好きで5年の間、遠く離れていても一瞬も忘れることがないほど好きだった人。その人に再会できたこと。そして相手が、今、大事に思ってくれていることを実感できたこと。

あとは、会社のスタッフが自分のやるべき社会的ミッションを見つけて、精一杯仕事で楽しんでくれればいい。でもそれは、彼ら自身の人生。私が手を貸すことには限界がある。そこまで自分が何かをできると思うのは、傲慢というものだ。

思い残すことがひとづつなくなって行くのは、楽だ。そして一日を、精一杯楽しんで生きたい。

旅は、いつも一人でいるわたしが、より一人になるための大事な「空白」なのかもしれない。

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