弟と私は、考え方も性格も正反対だった。だから私たちは、心底安心して話すことができなかった。だが、弟の妻(義妹)は、娘のことを自分の子供同様に育ててくれていた。
学校の給食袋や画材入れ、習字道具入れなどは、洋裁が得意な妹が、わたしが仕事に行っている間に、娘の要求に応えて作ってくれていた。娘も娘で、ちゃっかり家庭科の宿題を妹に頼んでいた。私が出張のときは、朝ごはんから夕食まで世話になった。
弟もそれは同様で自分が結婚する前から、父親参観のときには父親代わりに参加したり、私がいない休日には動物園やヒーローショーに連れて行ってくれたりしていた。
考え方の違う、弟夫婦と私がぶつかることがなかったのは、娘が間にいたからだったと思う。
中学生の運動会のとき、ダンス種目があった。カスタネットが必要だというのでひとつだけ持たせたが、実は二つ必要だということがわかった。そこには弟もいた。自分の子供はまだ小さいのに、運動会などのイベントに弟は必ず来てくれていた。
わたしは弟に言った。「ふたつ必要だったみたい。ま、しょうがないよね」。
すると弟は私に泣きつくように言った。「今から買ってきてやれよー。普段さー淋しい思いさせてるんだからさー。そのくらいしてやれよー。まだ間に合うからさー」
はっとした。目が覚めた思いだった。その種目まであと1時間ある。私は慌てて車を飛ばして、楽器屋を目指した。だが、自分の育った町なのに楽器屋なんてどこにあるのかわからない。仕事場が都内なので、この町のことがわかっていないのだ。
とりあえず町を歩く人に聞いた。「楽器屋さん知ってますか?」
幸い、楽器屋は路上駐車できる場所にあった。「カスタネットくださーい」と大声で叫んだ。
学校に戻ると、その種目の始まる10分前。娘はそんなこと気にしてもいなかったようで、「あ、別に構わなかったのに」と言った。それより、弟のほうが嬉しそうな顔をしていた。私は私で、自分がちゃんと愛情を示せたことに満足した。心の中で弟に感謝した。
娘が亡くなったとき、弟は一度だけ号泣した。そのあとは、ひたすら私と家族を守ろうとした。妹は葬儀の間、泣き叫びながらずっと遺影に手を振って名前を呼んでいだ。
娘の死によって弟・妹と私は、今までにない強い絆を持つことができたと思う。いつも仲介役だった娘。その仲介がいなくなってしまったことで、私と弟は素直に向き合うことができるようになったのだ。
今はアメリカに住む弟一家。たまに私はそこを訪ねる。その家は禁煙なので、わたしは毎朝、玄関前のテラスに座ってタバコを喫う。11月のコネチカットの空気は切れるように鋭い。朝日が家の隙間から上がり、庭を照らす。
妹の声が聞こえてくる。「おねえさーん、ごはんできたよー」
今の弟一家と私の良い関係。これは娘が望み、仕向けたことだと私は信じている。
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