ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

ビョルン・アンドレセンについての2003年の記事(1)

2015-01-26 00:00:00 | 映画

前に書きましたように、、ビョルン・アンドレセンは本日1月26日が彼の60回目の誕生日ですので、それを記念しまして2003年に英国の「ガーディアン」に発表された彼についての記事を翻訳して発表します。彼のファンの方もそうでない方も、1人の世界的なセンセーションを巻き起こした俳優の肉声を聞いていただければ幸いです。

なお下の記事には、やや事実関係が不審なところが見受けますが、それは記事中に注釈し、また明日の記事で指摘します。また記事中の写真は、私が勝手に探してきたものです。

それでは・・・。

「過去を思い出す」ビョルン・アンドレセン―「ベニスに死す」の美しきタッツィオが、ジャーメイン・グリアーの新著のカヴァーになぜ怒り狂っているかを語る。

マット・シートン

ガーディアン 2003年10月16日木曜日

ビョルン・アンドレセンは、ジャーマイン・グリアーの新著の表紙に取り上げられているだけだ、しかし彼はそれをとても不快にしている。その理由は、グリアーの芸術史と身近なエロティックとが元気よく特徴的に結びついている「The Boy」の表紙を、アンドレセンの肖像が美しく引き立てている。彼は、現在、あるいはかつてはもっとその役割にふさわしい少年だったからだ。

1970年、15歳のアンドレセンは、トーマス・マンの小説を原作とするルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」でタジオを演じた。アンドレセンは1夜にして有名人になった。この世のものではないというように賞賛され、ブロンドのイメージで固定され、ダーク・ボガードの演じるグスタフ・フォン・アッシェンバッハにとっての欲望への運命的な標的となった。しかしそれは彼そのものではなかった。

「少年は、女性の凝視の対象として討論べきものでない」と著書の中でグリアーは述べる。しかしヴィスコンティの映画への出演以来、アンドレセンは、男性からも女性からもじろじろとした視線を感じている。「The Boy」での彼の肖像の使用は、さらなる歓迎すべからぬ瞬間だった。彼は語る。「不快であることに似ていることに役立っているって感じですね」

彼が説明するに、彼の嫌悪の幾分かは、ストックホルムの彼の自宅から発信している道徳だという。「思春期の少年少女への大人の愛ってのは、原則としてはぼくが反対することです」という。「たぶん感情的にも、頭でよく考えたものとしても、それに困惑させられています。その種の愛がどのようなものか、あるい程度はつかめていますからね」

「その種の愛」についての彼の経験は、1970年(訳者:1971年の間違いでしょう。あとのほうでアンドレセンも「16歳」と言っています)のカンヌ映画祭だった。ヴィスコンティのその作品が最初に大評判となったのだ。「ぼくは16歳で、ヴィスコンティと撮影スタッフが、ぼくをゲイのナイトクラブへ連れて行ったんです。まわりはほとんどみんなゲイでしたね。クラブのウェイターたちを見ていて、ぼくはすっかり気持悪くなってしまいました。彼らったら、ぼくをあたかもごちそうみたいな視線で徹底的に見つめるんです」と、彼は言及する。

「なんの反応もできませんよね。社会のなかで自ら命を絶つようなものでした。でもそれが、さんざんそんな目にあう最初だったんです」

アンドレセンが少しも同性愛者でないことは首尾一貫している。「ぼくは、ゲイの人たちとあまりに長く一緒にいすぎました」しかし「世界最高の美少年」というキャッチフレーズが、彼のゆくところどこにも付きまとった。彼の熱狂的ファンがすべて男性だったわけでは決してない。「ベニスに死す」の成功が原因となって、彼は祖母から日本へ行くことをすすめられた。映画が大ヒットしていたのだ(訳者:明日の記事の注釈を参照してください)。スウェーデンで子役として彼を最初に売り出そうとしたのかは彼女だった。「祖母は、ぼくがとても才能があって、有名になってしかるべきだと考えていたんです、どういうことがおわかりでしょう」冷淡に語る。祖母は、たしかに望みをかなえた。数週間のうちに、彼は2曲ポップソングをレコーディングし、数本のコマーシャルに出演した。アンドレセンが日本で活動していた時、女の子たちが自分に群がってくることに気付いた。「米国でのビートルズの写真を知っているでしょう。あんなもんでした。興奮状態でしたね」

アンドレセンが本当に好きだったのは音楽だった。学園生活を終えて、彼は音楽大学で学ぶことを望んだが、それはかなわなかった。その代わり、彼はスウェーデンで最高レベルとみなされる指導者からピアノの個人レッスンを受けた。日本から戻ってからの彼の野望は、デューク・エリントンスタイルのビッグバンドを始めることだった。しかし映画の他の役を演じることに圧迫を感じてしまった。パリで1年間を過ごして、マルコム・リーの「How Lovely Are The Messengers」という映画の撮影開始にそなえて待機したりもした、そしてその映画は製作されることはなかった。「ぼくのキャリアは、一言で要約できます」彼はいう。「混沌(カオス)です」

(続く)

ちょっと注釈:特に注釈の必要もないでしょうが、2枚目の写真は記事にあるカンヌ映画祭の時の写真、3枚目は日本入国時の写真です。

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