ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

この場でチンギス・ハンの犯罪について論じても、それには何の道徳的価値もないのだ(チョムスキー)

2015-12-31 00:00:00 | 社会時評

以前とあるところで、かのノーム・チョムスキーが2001年の同時多発テロ直後に行ったという講演について教えていただきました。私が書いているいくつかの記事ともいろいろ関連がある内容だと思いますので、読者の方々にも読んでいただきたいので翻訳して発表します。なお、原文はかなり長いので、私が読んでいただきたいところのみの抄訳であることをご了解ください。

(前略)

質問者2:チョムスキー先生、今夜はお越しいただきありがとうございます。私たちはみな、先生がここにいらっしゃることを光栄に思っています。先生のお話の最初でふれられたことに戻りたいと思います。先生は、ご自身が米国を非難するあるいは来週以降にも非難されるであろう「無言の虐殺」について話されています。まず第一に、アフガニスタンの人々が飢餓に瀕していることの責任が米国にあると先生がお考えでないことは私も認識しています。彼らが飢えていることの理由はたくさんありますが、先生は世界経済のせいにしておられるのかもしれません。そう、たしかに、先生は、アフガニスタン人がこの状況にあることの責任を米国に向けてはいないのです。第二に、先生の討論からは、タリバンを責任とするいかなる言及も全くもって欠けているように思います。タリバンは、ただ国際法廷にオサマ・ビンラディンを引き渡すことにより、先生のおっしゃるこの虐殺を終わらせることができるのです。すぐに終わらせることができます。先生の討論からは、これが完全に抜けています。(後略)

チョムスキー:私たちがすべきことについて、私が考えていることへの回答は、すでに出してある。しかし君の質問について考えてみよう。最初に、君は、私が米国を非難しているといったが、それは間違っている。私たちの目の前で起きたことを許すことについて、私は君を非難し、自分を非難し、その他残りの人間も非難する。(拍手)それは、米国を非難することではない。第二に、アフガニスタンと関係のあるに違いない「世界経済」と君は発言したが、それは正しくない。アフガニスタンは常に非常に貧しい国であり、現在の苦境には多くの理由があるが、2つの主要な原因はロシアと米国だ。1980年代、ロシアと米国は、ほとんどこの国を破壊しつくした。アフガニスタン人を助けたのではない。国が破壊されるや否や、2国とも撤退し、米国がロシアを悩ますために組織した武装勢力が権力を引き継いだ。いまは北部同盟と呼ばれている。ヒューマン・ライツ・ウォッチがアフガニスタンの歴史上最悪の時期とした90年代初期に引き継がれ、米国が組織した多くの犯罪組織は、まさに国を引き裂いた。50,000人がたぶん殺された。そう、連中は大衆を強姦し大虐殺し、カブールを破壊したのだ。実際には、あまりにこの勢力が恐ろしかったので、タリバンが1994年から95年に勢力を持った際は、実のところ歓迎されたのだ。少なくとも彼らはこの地にある種の秩序をもたらしたからであり、米国の戦争によって残された狂人たちを追いやったからだ。そうこうしているうちに、米国は何もしなかった。そう・・・最初に、米国に責任があるわけではない。それについて何かができる君や私のような人間に責任がある。そのようなことをする抽象的な「米国」全体なるものがあるわけではない。第二に、これについてすべきことはたくさんあった。本当にたくさんのことだ。その他たくさんの武装勢力があるのだ。

タリバンが政権を移譲することだけで問題を解決することができると君は言う。タリバンが消え去ればたくさんの問題を解決できる。いいね? 私も長きにわたってそれを熱望している。しかし、私には、タリバンを消滅させる術がない。そうだな、1980年代のソ連にいるとして、党や政府と意見を異にする人が、ソ連の(アフガニスタンへの)侵略を批判しているとしよう。そうすると、人民委員が立ちあがって言うだろう。「なぜ君は、ソ連の侵略を批判するのだね? アフガニスタン人がお互いに対してやっていることをなぜ批判しないのだね?」そう、これが人民委員の標準的なやり方だ。これについてどう考えるべきかはお分かりだろう。君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。たとえば、いまこの場で私たちは、チンギス・ハンの犯罪について討論をすることができる。そしてそれは正しいかもしれない。しかしそれにはいかなる道徳的価値もないのだ。歴史学としての価値はあるかもしれない。スリランカで進行中の犯罪についても同じだ。それらについて何かができるとは考えてはならない。学問上のセミナーを開催することはできるが、それに道徳的価値があると考えてはならない。タリバンについて君が私に言うのも、それと全く同じことだ。道徳的価値はゼロなのだ。彼らができることはたくさんある。例えば、タリバンができることの1つは、君が言ったことだ。第三勢力に政権を移譲する。それについての問題は、米国がそれを認めないことだ。現在、この2週間で起きている申し出についてどう向き合うか? そんなことはわかりはしない。申し出はいつもされているが、ジョージ・ブッシュは言う。「君たちとは対話しない。君たちとは交渉しない。政権を移譲してほしくない」タリバンがどれだけダメな組織かということとは無関係だ。連中はどうしようもない。どうしようもないクズは世界にたくさんいる。私たちがすることに私たちは関心を持つべきだ。それが私たちができることだ。道徳についての公理があるとするなら、このことだ。もしこのことが理解できないのであれば、道徳の領域にたちいることは出来ないのだ。(大きな拍手)

(後略)

チョムスキーの主張は、読めば読むほど非常に興味深いものがありますね。かつて私は次のような記事を書きました。

安倍晋三が口先だけの男でなければ、首相だった時に胡錦濤に同じことを言っている

安倍が胡錦祷にしたという発言は、まさにチョムスキーが言う

>君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。それは残念なことかもしれないが、それについて私たちは何もできないのだ。

ということそのものじゃないですかね。安倍は日本の政治家なのだから、まさに日本の人権問題について彼ができることはいろいろある。それで安倍は、そんなことをろくにしなくて、自分が無役の際に中国の国家主席に無責任なことを言って、それで首相だった時、あるいは首相に復活した時にはそのような発言をしないのだから、まさに私のいう「口先だけ」というのがそのまま当てはまります。チョムスキーにならえば、どっちみちそんな発言に道徳的価値などありはしないのですが、いまの安倍は「口先だけ」ですらないのだからお話にもなりません。安倍のこの発言を過大評価した人たちは、猛省すべきでしょう。

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