徳島では阿波踊りが最高潮に達している頃だと思います。
毎年この時期は残り少なくなった昔の写真をチビチビ紹介しています。
今年は去年の、この記事の写真と同じ日に撮った写真から。
去年の写真と同じく市役所前の跨線橋からですが、反対の駅方向を撮っています。
ワシントン椰子が無いので今と雰囲気が違います。今は線路左側は植え込みがあって小さな公園のようになっています。
この年は徳新本社(当時)前にも桟敷があったようです。
変わってないのは夾竹桃の花と城山。引き上げ線で入れ換え中の気動車はキハ20、キハ11,キハ35と当時徳島気動車区所属の殆どの形式が連なっています。
もう一枚、
たぶん、小生が初めて撮ったカラー写真です。カメラは上と同じくオリンパス・ペンD,フィルムはフジカラーN100です。
場所は徳島駅構内、佐古方の跨線橋からです。写真では見えないと思いますが写っているC58も前が9号機、後ろが12号機と機番まで憶えています。
給炭台の反対側にはハチロクがいるようです。その向こうは西の丸運動場、そして画面左上隅には当時ここにあった徳島刑務所がチラッと写っています。
ハーフのネガを35㎜用のネガフォルダに入れてスキャンするとコマ間を上手く認識してくれなくて変なサイズになり少々トリミングしてあります。
今とは比べものにはなりませんが、黒が上手く表現出来なかった当時のフィルとしては良い色が出てると思います。
集煙装置に重油併燃装置も付けた2両が窓枠もドアも外して暑そうです。RM付録の沖田祐作氏作成「機関車表」によると
両機とも’38年製。9号機は汽車大阪で落成後、長崎機関区配置、戦中の記録は無くて終戦の年の8月には既に高知機関区配置が記録されています。その後’55年8月は高松(たぶん’51年に高知にD51が配属されたので異動したのでは)、そして’63年に小松島初のC58の一両として12号機と一緒に来徳したものと思われます(たぶん高松・高知にDF50が揃って来たため)。9号機は四国に在籍したC58では最若番のはずです。
12号機は川重・兵庫製。戦前は9号機と同じく門鉄(機関区不明)、以降は9号機と同じ経歴です。
但し、9号機は小生が撮ったのはこの写真くらい。本格的に撮るようになった翌年にはもう居なかったと思います。
一方12号機の方は小松島のC58最後の年となった’69年8月にも健在でした。その後に高松や松山から移動してきて先に廃車になった機が多数あったので、よほど出来の良い機関車だったのでしょう。
上の写真は以前紹介済みと思いますが’69年4月1日佐古で撮ったものです。12号機は確かどこかで保存されて居ますね。
こうやって徳島のことを書いてると来週からの帰省がますます待ち遠しくなってきました。