音楽というのは、本当にすてきです。
そしてそれを、人間という生きものが、演奏という形で表現できることも、本当にすばらしい。
どうして世界は、こういうものが中心にならないのでしょう。
愛と喜びが、世界中をつなぐ大きな輪の中心にならないのでしょう。
ベートーヴェンのこの曲と並べて話をするなんて、なんと大胆な……。
そしてきっと、プロの作曲家の方々には、今回仕上げたわたしの曲は、幼稚な作品だと感じられるものに過ぎないのかもしれません。
この曲のテーマは、ヤマハの核講師研修という名目のもと、日吉の研修センターに隔離(という表現がピッタリのキツいスケジュールでした)された各地区から2人ずつ選ばれた講師たちが、朝から晩までしごかれた講座の中で生まれました。
中田直弘氏による作曲講座の課題として、突如「一曲作りなさい」と言われ、無我夢中で、わけも分からないままに作ったものです。
その頃のわたしは、JOCという、ヤマハの中ではかなり力を入れていた、子どもたちによる自作自演のコースを教えていて、
そのクラスの中に、ヤマハの教材に使われたり、レコードになったりする曲を、次々に生み出す子どもたちがいました。
なので、そんな子どもの担当をしているのだから、おまえだって作れるだろうが……ということだったのでしょうけれども、
とにかくあの一瞬は、本当にびっくりしましたし、しかも「僕の講義がある3日の間に仕上げろ」ということだったので、大変に焦りました。
わたしは、幼児の頃からヤマハの音楽教室に入り、2年間、オルガンを使って音符やリズムを習いました。
その後、次のクラスに進むという時に、その教室の中にあった、先生だけが弾けるアップライトのピアノの椅子に座り、楽譜立てに置いてあった先生の楽譜を眺めながら、
ああ、やっとこれからはピアノが弾ける……いつか、この楽譜みたいな曲を、自分も作れるだろうか……と思ったのです。
その時のワクワク感が、作曲しなさいと言われたあの瞬間にあざやかに蘇ってきて、だから、焦りながらもすごく興奮していました。
最初のテーマがスルスルと頭の中から出てきて、あっという間に1ページ目が出来上がりました。
それを、わたしの肩越しに、フンフンと口ずさみながら読んでいた中田氏が、
「いいねこのテーマ、いいいい」と言ったかと思うと、サッと楽譜を取り上げて、ピアノの所に行ってしまいました。
慌ててその後をついて行くと、「はい、弾いて」と言われ、好き放題に書いたばかりの、しかもかなり弾きにくい楽譜面を、四苦八苦しながら弾いていると、
「なんで弾けないんだ!」と怒鳴られてしまいました。
そんなこと言われても……と凹む間もなく、何度も何度も弾き直しを要求されては叱られ、また弾いては叱られして、とりあえずその場は終了。
それからが大変な修羅場になりました。
「とにかく明日の午後までに、この曲を仕上げて弾けるようにしなさい!」
ぎぇ~!!
練習用のピアノは、何人かと仲間で使わなければなりません。
なので、ピアノを使って作曲をする、ということができず、すべては頭と想像の中で作らねばなりませんでした。
とにかく仕上げてしまわねば!
という気持ちで仕上げたその曲を、バイオリニストの方と一緒に2回ばかりリハーサルをして、研修の最後の演奏会で発表させてもらったのですが、
それっきり推敲し直すこともなく、大変だったけれども忘れ難い思い出として、心の引き出しの中に仕舞いこんでいました。
そして……。
あの、今から3年前の3月11日の真夜中の、パソコンのモニター画面の中に映る東北を襲った大津波の惨状を、はらはらと涙を流しながら見つめていた時、あの曲のテーマがいきなり蘇ってきたのです。
あの日まで、そしてあの日からもずっと、このブログで、自分の思いや考え、それから願いを書き綴ってきました。
震災津波、そして原発の重大事故に襲われた東北地方、そして日本への思いは、書いても書いても書き尽くせません。
音にしてみようか。あの日、突然蘇ってきたあのテーマをもとに。
ふとそう思う自分に、やめておけ、またあんな大変な思いをしたいのか?と、止めようとする自分。
そんな自分同士の言い合いを聞きながら、時間がどんどんと過ぎていきました。
今から丁度1年前に、ACMAのカーネギーでの定例コンサートのオーディションを、自分の曲で挑戦することにとうとう決め、
とりあえず、オーディション分の1分半の長さ分だけを必死に書いて、パートナーを引き受けてくれたバイオリニストのサラに渡しました。
「ごめんねサラ。でも夏までには多分、最後まで書き終えて渡せると思うから、待っててね」
でも、物事は、特にわたしなどのような者にとっての作曲作業は、そう簡単にはいきませんでした。
有言実行!と、威勢よく宣言したものの、途中で何度か、やっぱり無理なのかもしれない、などと思ったりもしました。
けれども、もう公言してしまったのだし、決めてしまったのだから、やり続けるしかないのだと励まし?て、なんとか最終小節までに辿り着いた日の夜は、
自己満足の世界に過ぎないのだけれども、心地良い疲れを感じながら、書き終えた楽譜をずっと眺めていました。
そして今、わたしの机の上には、予約で手に入れたチケットが並んでいます。
そして彼らが、親愛なる演奏者協会の仲間です。
たった一ヵ月しかない、演奏のための期間を、ずっと待ってくれていたサラとふたりで、週に2回、合わせの練習をしています。
練習のたびに、サラはわたしに、「ここはどんなふうに演奏して欲しいの?」と聞いてきます。
日本で2年間、岡山で、小学校の先生をしていた彼女。
「ここは、理不尽なことを押し付けられている人たち。
そしてここは、地震や津波で、あっという間に奪われた、父や母、子や孫、家族や動物、山や川、町や村を、恋いながら叫ぶ人たち。
怒りや悲しみや諦めの感情が、抑え切れずに溢れ出てくる。
けれども、それでも人間の中の尊い部分を、最後まで失わず、強く生きようとする人たちへの、わたしの祈り」
そう言うとすぐに、うんうんと頷いて、その彼女の理解を音にして、演奏してくれるのです。
彼女の想いとわたしの祈り。
どうか届きますように。
そのため、幸福を味わったのは中一のビートルズ(当時は解散前)その後、ロックの時代、ジャズの時代と続き、ソウルも混じって、FMはNHKしか入らない場所に住むことになり、やっとクラシックに辿り着きました。
まだ、ピアノは心から楽しめず(笑 チェロにときめいています、もちろん聞くだけ・・・クラッシックならギターを習えばどんなに人生楽しめたか?などと妄想中(笑
肉体的にであれ、精神的にであれ、きつく苦しい経験がすっかり終わった時に聞く、全身に浸み渡る音楽の豊潤さは最大のご褒美ですね。
実は、ここでしか告白できないような、トホホな経験がわたしにもあります。
わたしはその、ピアノを音楽との不幸な出会いにしてしまった張本人になったことがあります。
何人かの、とても気の毒な生徒たちに、ここでしっかりと謝りたい!なんて……ははは、恥ずかしいです。
教師歴がそろそろ40年になろうというのに、そういう思い出は極めて鮮やかに残っています。
ああ罪深い……。
わたしもヘビメタやハードロックに熱中したことがありましたが、なんとビートルズの存在を知らずに高校生になったという伝説があります。
ブラバンで演奏した時、???なわたしを見て、みんなが腰を抜かしました。
チェロ……いいですねえ……。
このチェロがけっこう意味を持つ小説を書いたことがあります。
今でも、チェロを艶やかに弾いてくれる人を観ると、ときめいてしまいます。
そうですよね、相性相性(笑
ちょっと聞き捨てならない!(笑
楽譜だけでは無く、小説も書かれるのですか?
読書体力は落ちたとは言え、活字中毒です。読ませていただける機会がありますように。
やはりなによりも、わたしの、ピアノ教師として、そして一個の人間としての未熟さが原因だったと、今も反省しています。
といって、今もまだ未熟なんですが、その度合いが問題なんですよね。
あの小説は、何度か推敲を重ねているうちに、なんだか輝きというか勢いというものが薄れてしまいました。
いつか全体を書き直したいと思っています。
それまで待っていただけるのなら……。
あ、でも、なんでもええから送れ!ということでしたら、もちろん送らせていただきまっす!
まうみさんがとりあえずでも納得されるものが書けたら読ませて下さい。
なんというか、読んだままが、まうみさんの印象になってしまいます・・・プレッシャーじゃなくて。
知っている人(作品以外と云う意味で)の小説は生涯で2度目です・・・
前回は、やはりネットで交流のある人でしたが、とてもデリケートな作品でなんとコメントしていいか分からなくなり一月くらい何も言えなくなりました(笑
なんか、緊張してきました。期待と共に(笑
当たり前だと思います。書いた本人がわたしなのですから。
そういうことも含めて、知っている人間の書いた物語を読むというのは、おもしろい体験なのかもしれません。
あまり期待をなさらないように、そこのところをよろしくお願いします。なんちて……。
とりあえず今は、演奏に集中すべき時なので、それが終ってからまた考えますね。気長に待っていてください。
演奏会の成功をお祈りいたします。
どちらもとてもうれしいです。
ありがとうございます。