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曹洞宗7月の法話①

2021-07-04 15:24:00 | 曹洞宗の法話
「諸法無我」
(しょほうむが)

「諸法無我」はお釈迦様の基本的な
三法印(さんぼういん)の中の二つ目

「三法印」とは

仏教の中心思想を示す述語

原始仏教の間で術語化されて、一切皆苦(いっさいかいく)と諸行(しょぎょう)無常と諸法無我との三法印と、それに涅槃寂静(じゃくじょう)を加えた四法印となり、やがて一切皆苦が省かれて以後、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3種を三法印と称して、仏教の中心に据え、今日に至る。


「諸法無我」(しょほうむが)とは、全てのものは因縁によって出来上がっていること。 また、永遠に変わらない「我」というものを持っていないということをいいます。 一つの物事は常に変化するきっかけがあり、思わぬ変化の原因となる可能性が誰にでもあるのです。 誰もが全てのきっかけとして生かされている。

すべてのものには「実態」がないという考えかた。


「じったい」と読む言葉には、「実態」と「実体」の2つがある。

これらは読みが同じで文字も一部共通していますが、意味内容はそれぞれ異なります。混同してしまわないように、個々の意味をしっかり把握しておきたいところです。


「実態」とは外側からではうかがい知れない、ものごとの本当のありさまを指します


「実態」の「実」は「まこと」「本当」などの意味を持ち、「態」は「ものごとの様子」「ありさま」の意味を持ちます。


「ふだんは人目に触れないものごとの内側の様子」を表すのが「実態」の特徴


「実体」とは、「本当の姿」という意味の言葉です。あるものが持つ物理的な存在としての姿形や、本質的な正体を言います


「実体」の「実」は「本当」を表し、「体」は「姿」を表している。


「実態」との違いで言うと、「実体」は「ものの姿や形、正体」に対して使われるという点が異なります。「実態」は「ものごとの内側の様子や状態」を指して言う言葉。「実体」は「姿形」や「実質」を指す言葉。


私の身体に「実態」があるとするならば、それはどこですか?

私の顔が、わたしなのか?

私の足が、わたしなのか?

裏を返せば私の顔が、わたしであり私の足が、わたしである。

ほな

私というものは、どこにあるのか?

それは集合体である。

集合体とは個々のものが集合して出来あがったもの。

私の髪も、私の顔も、私の足も、私の爪も全て私である。しかし実は「実態」はない。


これが「諸法無我」の意味だと。


(注)この法話は日泰寺の村上円竜様のYouTube法話から、わかりやすく説明したものである。




仏教は奥深く、理解するまでに、かなりの説明は必要だな、と思いました。

私も色々、言葉の意味など調べて解説してみたが、んー😐、まだまだだなぁ〜(*≧∀≦*)