今夜も力うどん after

ミュージシャンMaysicoが綴るその後のいろいろ。麻布十番エリアにあるサックス教室アレイアミュージックカウンシル主宰。

人生のわずかな幸せなとき

2022-02-15 16:39:00 | 暮らし


古い友人の可愛がっているインコの記事をきっかけに思いを巡らせたこと。
人として生活者として、最も影響を受けた存在は血の繋がらない曾祖母。
このブログでも繰り返し書いてきたけれど。

日露戦争を知っていた曾祖母。
あの時代、子供を持つことなく生きてきた女性。
曾祖父とは60代での晩婚&再婚のはずだから、どれだけの苦労をしながら生きてきたのだろう。
私が生まれたのは曾祖母が80歳のとき。
働く女性だった母に代わり、姉とふたり80代でのはじめての子育てのようなものだったはず。
2,3歳にしてどうしようもないお転婆だった私を、一日中追いかけていたそうだから、へとへとだったに違いない。

当時はご近所さんがみんなで地域の子供を見守り育てるような時代。
自分の記憶はないけれど、長屋住まいの我が家。
私の散歩ルートのようなものがあったらしく、毎日近所の某家にスタスタ上がり込み、碁石を満足するまでぶちまける。
怒られるどころか、そこに置いてある碁石は’みっちゃん(私)用’
公園に行ったり、汽車を見に行ったり、疲れると家のたたきで即爆睡。
きっと夕飯の支度の下ごしらえくらいはしていただろうから、何という体力!!
4つ年上の姉とふたりを一日中ワンオペしていた80代!!

その後、両親はめちゃくちゃ頑張って小さな家を建て引っ越した。
一度大病をしたがその後元気になり、幼稚園や小学校から帰ってくると曾祖母お手製のおやつが当たり前のように用意されている。
ストーブでじっくりふかしたさつまいも、ふなやきと言われるホットケーキのはしりみたいなもの、干し柿、すべて皮を剥いて砂糖漬けにした八朔。熊本出身だけにいきなり団子!
自分がクッキーやチョコレートなどの間食をほとんどしない理由は、自分にとってのおやつはこういうものだと身体が覚えているからかもしれない。

小学生の頃、インコを飼っていた。
最大10羽を越えたこともあるが、基本世話は私がやっていた。
中でもハッピーという1羽は、私が学校から帰ってくるとバサッと飛んできてピーチクパーチク”一日の報告”をする。
ハッピーに奥さんが来てかわいい雛が生まれ、勝手に餌付けし手乗りにすることにした。
勝手→自分は昼間学校に行っているのに...
そこで、曾祖母が雛の餌付けを担当することになった。
押し付けられたと言っていい。
3度目の子?育て。90歳近かったか。
数時間おきに餌をやるのだが、食べる餌の形状もだんだん変わってくるからなかなか大変だったはず。
曾祖母は雛が自分になついたことより、私への責任を果たしていることにさぞ安堵していたに違いない。

中学生ともなると部活でもはやほとんど家にいない。
高校生になると、行動範囲も広まり帰宅時間もさらに遅くなる。
土曜日も半ドンだった昔、土曜日のお昼を待っていてくれた曾祖母。
羽釜で炊いたご飯をこたつに入れて、どんなに遅くなっても待っていた曾祖母。
なのに、「こんな時間まで待ってるなんて。早く食べればいいのに」と悪態をつく。待っていられることがどうしようもなく重かった。
高校入学後、両親の職住隣接という理由で市内中心部のマンションに移った。
その案に一番肩入れをしたのは、他ならぬ私だったはず。
都会(といっても福岡)に住める。
結果、曾祖母は一日をたったひとり、マンションの一室で過ごす日々となった。
友達も知り合いもなく、ただ一日を9階のマンションの一室で。
引っ越しを機にリビングに置いたとても心地よいソファーセットに、曾祖母は一度も座ることはなかった。
お風呂もいつも一番最後。
たまに髪の毛や体を洗ってあげると、手をあわせて私を拝む。
生前最後も、帰郷した際のお風呂。やはり私に手をあわせる。
思い出すと涙が溢れる。
そんな...世話になってきたのは私なのに。

遡ることわずか10年弱。
そこには土曜日の午後、当時公務員で土曜日は早く帰ってくる父が昼食のパンを焼き、曾祖母と私や姉と父と、和やかに食卓を囲む時代があった。

高校を卒業して、4つ上の姉と共に上京した。
そして1年半後、曾祖母は100歳で亡くなった。
100歳の時、市の職員さんがその人の歴史をききに訪ねてきたそうだ。
しかし肝心なことは一切語らず。
結局、私たち家族は血の繋がらない曾祖母の歴史をよく知らない。
100歳といえば寿命に違いないが、私たちが上京してから気力も尽きたのかもしれない。

高齢化時代、100歳まで生きることは普通になるかもしれない。
天寿をまっとうできることは幸せなことだが、何もやることがない、やることを置き去りにしてしまった日々を生きることはどんな気持ちだろう。
かつて、昼間主たちが不在の家には子供がいた。
後を追いかけ、ゆっくり座る時間もないほどの毎日も、いつか一日のほとんどをだれもいない空間の椅子に座って外を眺めて過ごす。

あのときなぜマンションに移ることに大賛成してしまったのか。
ささやかながら土のある庭のある家。
桃も梅も無花果もイチゴも採れる庭。縄跳びもできたし、鉄棒もあった庭。
干し柿や梅干しを干せ、白菜漬け、たくわんの桶を置いておけるベランダもあった。小さな池に鯉だって泳いでいた。
なぜあんな幸せを手放してしまったのか。
お昼を待っていてくれたことに、なぜ素直に感謝できなかったか。
時が戻せるなら、ドラえもんのどこでもドアが使えるなら、曾祖母との時間を取り戻したい。
できるなら、上京する前に天国へ送ってあげられたらどんなによかったか。
最高の愛情を注いでくれたのに、時とはなんと残酷なのだろう。
亡くなって36年。今も日々忘れることはない。