お出かけ日和

お出かけの記録がメインです

肝細胞癌末期 在宅看護 7

2015年04月05日 | 末期癌在宅看護
12月1日に入院し、先生に延命は望まない旨を伝えました。

ただ一つ、痛みだけは取ってあげて下さいとだけお願いしました。

意識が戻った母は、強いモルヒネの影響で、まともに会話が成立しなくなっていました。

酸素マスクが鬱陶しいらしく、鼻からの酸素マスクに変えてもらいました。


12月2日

父、母の妹、弟、私の次男がお見舞いに来ました。モルヒネが切れかかった数分間だけ、まともに話をしていました。
それでもすぐ苦しそうな表情をします。


12月3日

父、母の弟、私の妹、姪っ子、私の娘がお見舞いに来ました。
母はモルヒネで、意識もうろうとしていました。


12月4日

ベット横のトイレに座る事ができるようになりました。
その上、今日は、少し話ができたのです
。ちゃんとした会話になりました。

明日は五時起きよ!弁当当番らしいの。あの人と二人で。

と、個室なのにいるはずもないその人を指差していました。


弁当当番か。早起きになるね!たいへんだねー!

と言うと、

私の弁当が美味しいらしいの。

と言ったかと思えば、

お父さんは?上?
ちゃんと食べなさいよーお父さん!!

と笑ってみせます。
完全にモルヒネによる幻覚でした。


12月5日

朝早く行くと、歯で必死にミトンを取ろうとする母の姿がありました。
両手に大きなミトンを付けられ、一晩中手が使えなかったようでした。

すぐミトンを外すよう依頼し、点滴を電気に間違えてるのかもしれないので、頭の後ろの方に付け直してほしいとお願いしました。


少し良くなってきたから食事しますか?

と看護師さん。

ハイ、します。食べないと帰れなくなっちゃうから。

と言うと、母は、お粥などの柔らかいものを二口ほど食べごちそうさまをしました。

ごはんも食べられるようになったし、あと少しで退院ね!

とハイな母。薬の影響でしょうか。


12月6日

朝早く病院へ行ったら、その日もミトンを付けられていました。

いい加減、点滴の位置を変えてほしいのですが、と又強く訴えたところ、変えてもどうせ引っ張る!

と言われました。

それでも試しに変えてもらったら、引き抜く事はなくなりました。
やっぱり電気のコードと間違えていたようです。


息が少し荒く、息苦しさを訴えていましたが、正気の時は少し話しができました。

車椅子で院内を散歩しましたが、もう首を自分で支える事が出来なくなっていました。片腕で首を支え、片腕で車椅子を押す。車椅子と同時に酸素ボンベも転がしました。
首を支えていた腕は痺れました。
頭って本当に重いんですね。

この日も食事は一口だけでした。


12月7日

この日はお風呂に入れてもらいました。
何週間もお風呂に入ってなかったので、大きなお風呂に喜んでいた母の姿がありました。
人生最後のお風呂になりました。


お風呂に入ったのよー!気持ち良かったー!

なんて、危篤の人の言葉とは思えないほど、この日は正気で、聞き取れる声で話をしていました。

人は、亡くなる前に一度元気になる!と聞いた事がありますが、この日の母は、病気を感じさせないほど元気になっていました。


12月8日

朝から父と病院へ行きました。

大学四年の次男は、今日からアメリカ短期留学だったので、母は次男に電話をしていました。

息苦しく、声にならない声で、

気をつけて行ってらっしゃい

と言うのが精一杯でした。

これがきちんと母の声を聞いた最後になりました。


12月9日

朝から、父、母の弟、母の妹、私で病院へ。
意識がなく苦しそうに息をしていた母がいました。
足が氷のように冷たいので、皆んなでさすったり、缶コーヒーを買ってきて温めてあげました。

お昼になったので、皆に、一度家に帰っていいよと言って、私だけが残りました。

私は看護師さんに、

苦しそうだけど大丈夫ですか?

と尋ねると、

昨日と同じ点滴をしているので、もう少ししたら苦しくなくなりますよ。
日曜日なので先生はお休みですが、全く問題ないですよ。大丈夫ですよ。

と笑ったので、私も午後二時半に一旦病院を出ました。


妹に連絡がつかないので、何度も電話やメールを入れましたが音信不通。
でも、いくらなんでもそろそろ来るだろうという気持ちで席を外しました。


席を外す前に父から

お母さんはどうですか?

と、メールが届いたので、

大丈夫だよ!落ち着いてきたから夕方また来てね!

と返信したのです。

きっと父には伝わっていたんでしょうね。母の気持ちが。母が呼んでいたのかもしれません。
でも一人じゃ病院まで来られない父は、叔父たちの迎えを待つしかなかったのです。


私は用があったので、高速に乗ってビックサイトまで走っていました。夕方には病院へ戻れるからと、何も考えずに。

しかし、台場インターに到着するなり病院から電話がありました。


もう尿が出なくなったので今夜かもしれません。皆さんに連絡して下さい。

との事。

つい一時間前まで病院にいたのに、全くそんな事言われなかったし、モニターすら付けられていなかったのに、いったい何の事?

と、頭がパニックになりました。


とにかく早く戻ろう!と、あちらこちらに電話を掛けながら高速に乗りました。運悪く渋滞で祈っていると、

15分後また病院から電話がありました。


もう息が止まってしまったので早くきてください。

と。たった15分でです。

はぁ?
さっき、大丈夫って言われたのに。
どうしてこうなるの?


父も間に合わず、叔父たちも間に合わず、妹は朝から音信不通。


私は長男に電話をし、

すぐに病院行って!おばあちゃんが死んじゃったみたいなの。

と言うのが精一杯でした。

長男は一番に駆けつけてくれたらしく、その後父や叔父たち。
だいぶ遅れて妹がかけつけたようでした。

妹から私に

午後5時に確認しました。ゆっくり来てください。

とメールがありました。

当然のように語る妹の態度が悔しくて、席を外した自分が情けなくて、泣きながら友達に電話をしたのを覚えています。


亡くなった朝、母は看護師さんに、

帰りたい

と言ったそうです。
その直後から反応なくなったようです
が、朝行った時は、その話は聞いていませんでした。

それなのに何故あの看護師さんは、

大丈夫ですよ、いつもと同じです。

と、私に伝えたのでしょうか。
もちろん、急変はあるでしょうけれど。


私も私。


気になるのなら、外出せず、その場に留まれば良かったのです。


看護師さんが母に、

娘さんが来るまで頑張って!!

と話しかけると、母は大きく息をしたそうです。

人工呼吸は、骨が折れる可能性があったのでできなかったとの事。


お母さんごめんね。

誰もいなかったから寂しかったよね。
ごめんなさい。


父は、

きっと、母さんは、皆に心配かけたくなくて、皆が帰った後で逝ったんだよ。
優しい人だったから。

と言ってくれました。


悔いが残る最期でした。

入院してから9日目、

余命二ヶ月の宣告の日から、4ヶ月と10日。

頑張り屋の母は、最期まで頑張って生きました。


肝臓は沈黙の臓器です。

皆さん肝炎の検査は受けて下さいね。

亡くなる一ヶ月前の11月、産業祭りで母が買ってくれたシクラメン。
二年が経過しましたが、未だに綺麗な花が咲きます。
ふざけてお化けのシールを貼りました。
鉢も買った時のまま、あの時のままです。


これでおわります
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肝細胞癌末期 在宅看護6

2015年04月05日 | 末期癌在宅看護
11月に入ると、母の体重は15キロも落ちていました。

お風呂に入れると、

こんなに痩せちゃったわ。なんでだろ?お腹はこんなに角ばって腫れているし。おかしいわね。

と言いました。

その頃の事です。
私がいない時に、在宅医が訪問診療に来て、父を玄関の外に呼んだそうです。
二人の様子がおかしいので、母は玄関の近くまで行ったようで、

あと2週間もてばいいなぁー!

という声が聞こえてきたそうです。

父からの電話で、母が落ち込んでいる事を知り、夕飯準備を旦那に任せ、実家に飛んで行きました。

するとあの穏やかな母が下を向いて座っていました。

私は死ぬんだって!どうせ死んじゃうんだからどうでもいいのよ!

と投げやりになっていました。

死なないよ!誰がそんな事言ったの?私、そんな事聞いてないのにおかしいじゃない。お父さんも聞いてないでしょ?医者、違う患者さんの事と間違えたんじゃないの!

と言いました。

とにかく今夜は薬飲んで寝よう!

と、オプソと睡眠導入剤を飲ませ寝かせて帰りました。

私は医者に電話をし、

約束が違う。私に電話をくれる約束だったのではないですか?父は知っていますが、実家で喋ったら母に聞かれるに決まってるでしょう。

と抗議しました。

賛否両論あるでしょうが、私は最期まで母に楽しく生きてもらおうと決めていたので、こんな事で生きる力をなくしてほしくはなかったのです。

翌日実家へ行くと、普段通りの母がいました。

昨日、聞き間違いだったみたい。ごめんね。

と言われた瞬間、母の優しい性格上、事実は自分の胸にしまって、このまま知らん顔してようと思ってるに違いない、と思いました。

それでも私は、

そうだよ!聞き間違いだよ。私が聞いてないのに変だし、先生からも連絡なかったよ。

と言いました。

それからは、何事もなかったかのように時は過ぎて行きました。

11月11日

毎年11月には産業祭りが行われます。両親は毎年二人で、その場所へ出掛けるのを楽しみにしていたので、妹にSOSをし、母に厚着をさせ、家族四人、最期のお出かけをしました。

母は馴染みの人の店を訪ね、いろいろ買っていました。手を引いてあげて、とにかくゆっくり歩いていました。

車椅子乗るほど重病人じゃないから大丈夫よ!

と言いながら。

馴染みの店の人たちは口々に、

痩せたね!どっか悪いの?

と言います。

それ言わないであげて。もうあと少しでお別れなんだから。

とも言いたかったのですが、敢えてバカになり、

ダイエットさせたんですよー!
ねー、お母さん!

と笑って答えました。


11月16日

母の調子が良かったので、妹と3人で、近所の百貨店に連れて行きました。母の希望で、父のパジャマが買いたいとの事。
明日は父の誕生日です。

車椅子を押しながら、パジャマコーナーをうろうろしていたら、突然母が

気持ち悪い。

と言いだし、トイレで吐いてしまいました。
もう車椅子も乗れなくなっていました。

オプソが効かなくなり、新しいモルヒネ、

MSコンチン

を飲むようになっていました。

飲んだ後は、人格が変わり、凶暴になりました。父は心底疲れきっていました。


12月1日

早朝、父から電話。

母さんが起きない!苦しそうだ!

と。

駆けつけると横を向いたまま、苦しそうに肩で息をする母がいました。

もう限界だ。父も参ってるし、母の痛みは在宅では抑えられてない。
ホスピスへ行こう!

と、在宅の看護師と先生に電話をしました。すると在宅医は、

運ぶって、どーやって運ぶのよ?
救急車使えないよ!
それにもう危篤なんだからさ、もってもあと一週間だって!
こちらでやるから家に置いときなって!

と言いました。なんて口調なの。


いや無理です。痛みは取れていないし苦しそうだし。もう無理です。限界です。救急車使えないならこちらでなんとかします。また連絡します。

と、私の一存で電話を切りました。

父や妹は私の意見に賛成してくれ、ホスピスに電話しました。

救急車使えないそうですが。

と言うと、

使えますよ!誰がそんなこと言ったんですか?すぐ救急車で来て下さい。

と言われました。

救急車使えるんじゃない…。

お母さん、病院行こうね。苦しいの嫌でしょ。

と言うと、ウンと頷いて、目を閉じたまま肩で息をしている母がいました。

酸素マスクを付けモニターを付け、胸に貼るモルヒネをも付けてもらい、だいぶ楽になったようでした。



もうお母さんは家に帰れないよ。覚悟しておいてね。

と父に言うと、本当に寂しそうな顔で黙っていました。
お別れの日が近づいていました。

在宅医は怒ったのか、大量に残った麻薬、オプソも回収に来ませんでした。

それだけの付き合いだったのだからほっときましょう。

と、ケアマネが肩を叩いてくれたので、ケアマネの存在の大きさに感謝しました。


つづく



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肝細胞癌末期 在宅看護5

2015年04月05日 | 末期癌在宅看護
余命2ヶ月の宣告を受け、早2ヶ月が過ぎました。

10月2日、在宅看護スタート。

10日5日 外来。

退院後初めての外来には、私の車に乗せ、片道20分の病院へ連れて行きました。
車を降りるなり母は、

気持ち悪い。

と、病院入口で座り込んでしまいました。
看護師さん通りかかったので、末期癌の旨伝えると、

癌がお腹を圧迫しているので、車移動ももう無理だと思いますよ。

と言われショックでした。

検査の結果、カテーテル塞栓術の効果もなく、癌は増えていました。たった1ヶ月前のことなのにです。


そして医師は、もうカテーテルも出来ません。在宅で静かに余生を送らせてあげて下さい。とおっしゃいました。
見捨てるのかい?と思いましたが、運命、天命、仕方ない事と思うようにしていましたが、それを聞いた時は本当に辛く、

やっぱりもうダメなのか。

もう少し早く発見してあげてたら、あと10年は生きられたのに。まだ70歳なのに。ごめんね。

と、違う部屋で安静にして待っている母に言いたい気持ちでした。

それでも母には、

もう来なくていいってよ!

と明るく言うのが精一杯でした。
母は喜んで、

今の痛みがなくなれば終わりね!

と、元気を取り戻したので、これでいいのかな?と、心の底から悩みました。

それでも私は、

もう癌は取れているのにわざわざ通院するの大変だから、訪問看護師さんや先生に来てもらう事にしたよ。介護保険使わなきゃ損でしょ。

と、嘘を言いました。

治ったと信じている母なのに、今さら本当のことを言って、奈落の底に突き落とすような事しなくていいから。

と自分に言い聞かせ、反対意見の妹にも強くその事を言いました。父は黙っていました。

これはホスピスに提出する紹介状



自宅に帰れた事で、大分元気になった母でしたが、食欲はゼロに近い為、食事を作る事ができなくなりました。料理上手で何でもパッパと作っていた母の手料理はもう食べられません。
その日から、私が朝昼晩、食事を届けるようになりました。

その私が10月12日

頭の激痛で起き上がれず、旦那が救急車を呼ぼうとする程の大騒ぎになってしまいました。
今は入院してる場合じゃないので救急車はやめてもらい、車で脳外科へ行き、MRIを撮りました。
診断結果はストレートネック。

偏頭痛より強い痛みで頭の血管が切れそうな感じの痛みが出ます。

と言われ、

確かにその通り。クモ膜下かと思った位痛かったので。

と言うと、

侮れないのでしばらく安静にしていて下さい。入院もできますよ。

と言われました。

ロキソニンも何も効かない痛みと闘いながらも、母の世話を続けました。
合間に通院をし、MRIを撮る日々でした。

10月18日

新たなホスピスに面談に行きました。
ここも月25万円。しかも空きはありません。本当に在宅で無理になった時連絡してみて下さいと言われました。


在宅での母は、食事をするとすぐにお腹をさすりだしました。
その頃からお腹の腫れがすざましくなり、難民の赤ちゃんのようにぷっくりしたかと思えば、ティッシュボックスを入れたように、四角くカチカチになったりしていました。腹水ではなく、肝臓癌が肥大して外側に出ているそうです。

多分相当な激痛だろうに、治ったと思っている我慢強い母は、決して軽々しく痛いと言いません。

見ればいつでもお腹をさすっているのにです。

私はわざと、

痛み止めは飲んでおいたほうが予防になるよ!

と、促しました。やはり痛かったんでしょう。我慢強い母の口からは、

そうね、寝る前に飲んでおくわ。
今も飲みたいけど、まだやめとくわ。

と、寝る前までモルヒネを飲みませんでした。

オプソ

という水薬のモルヒネは、細長いスティック状になっています。そのまま口を当てて流し込むのですが、飲んだ翌朝、父から電話がありました。

母さんがおかしい!
麻薬じゃないのか?やたら怒ってる。早く来てくれ。暴れてるから。

と。

一度も父に歯向かったことのない、とにかく穏やかだった母が、父に向かって暴言吐いていました。
夢の話をしていました。
隣の部屋で知り合いのお葬式やってるから静かに!

と、私が話すのを止めたりもしました。

人相も変わっていて、以前の母はそこにはいませんでした。

そんな生活が1ヶ月続いた頃、オプソの量も増えていました。
朝昼晩と三回に加え、夜中も必ず起きて飲む。痛みで眠れなくなっていたので、隣で寝ている85歳の父の体力も相当衰えていました。

昼夜問わず、父からSOSの電話が来るたびに、訪問看護師に連絡し、かけつけてもらいました。

ある時、トイレに立った母が歩けなくなり、大人四人がかりで部屋に戻すと、オプソでは効かないから、点滴をしてほしいと訴えてきました。

すぐに医者がやってきて、部屋の中に点滴を吊るし、うまい具合に点滴を始めてくれました。

点滴をした後はだいぶ痛みが消えているようでしたが、末期の痛みで転げ回る様子を見て、これ以上在宅看護を続けるのは、父にとっても母にとっても残酷なんじゃないかと思うようになりました。

医者に相談すると、

どちらにしてもあと少しだし、病院送りしても同じ事。自分達が最期まで見るから、このまま続けてよ!

と、いやに軽い口調で言われました。

この時私は、この医者は事務的だ!と思ったのですが、最期は自宅でと考えていたので、そのまま在宅医に任せる事にしました。

ある日、又、ホスピスから電話がきました。

空きましたがどうしますか?

もう少し在宅で看ます。

と、言うのが精一杯でした。

11月になろうとしている、ある日の出来事でした。


つづく


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肝細胞癌末期 在宅看護4

2015年04月04日 | 末期癌在宅看護
北海道旅行も無事終わり、一週間後の9月4日、母の外来の日が来ました。

造影剤を飲んでCTを撮り、エコー検査もありました。

結果は、カテーテル塞栓術で叩いたはずの大きな癌二つも、全く効果が見られない。
その上、他の癌も大きく成長している。

このまま入院し、明日第二回目のカテーテル塞栓術を行います!との説明がありました。

明日の塞栓術も前回と同じ。

無数の癌の中でも、破裂しそうな癌3つに対して行うだけ。

又、肝機能低下して、今よりもっと食べられなくなるだろう。
やっても無意味な気がするのは私だけ?先生はやる事を強く勧めてくる。

母は?というと、治ったと思い込んでいただけに落ち込んでいた。
しかしすぐに、やります!と応えていました。

父に電話をし、これが最後の手術になるだろう事を説明。了解を得て、母を入院させました。



9月5日

第二回目のカテーテル塞栓術

前回の1時間半を楽に越え、3時間という時間を要しました。

終わって出てきた母は、泣きべそをかきながら、腰が痛い!と訴えている。前回より辛そうだ。

術後三時間は仰向けで過ごさねばならないので、今回は家からクッションや毛布を沢山用意していった。

テンション上がるようにと、ディズニーのかわいいグッズにしたものの、苦痛に歪んだ母の見たことのない顔に、手術を後悔をした私がいました。

翌日からは、食欲が全くなく、便秘になってしまった為、マグラックスという薬を飲み出した。

母は歩くのもままならない為、朝昼晩と病院へ通いました。


ある日、朝一で病院へ行くと、

ごめんね、パジャマ汚しちゃった。捨てちゃって。

という悲しそうな母の姿がありました。

自然現象なんだから仕方ないじゃない!洗ってくるから気にしない事!

と、それから毎日、同じような洗濯物を手洗いしながら、母への今後の対応を考えたりしました。

毎日山ほどの洗濯物を持ち帰り、洗濯し、素麺を作り、朝昼晩3回病院へ行くという生活が続きました。


入院中の9月7日

主治医から、これ以上の治療は無意味だと思う、という説明がありました。

それと同時に、病院のソーシャルワーカーとの話し合いを勧められ、慌ただしく面談をしました。

9月11日

病院が勧める在宅医療の看護師との面談があり、退院後の終末期医療は、在宅でという結論が出ました。


在宅看護に向け、退院前に実家の改装工事をしました。トイレに手摺を付けたり、湯船を交換したり。

9月20日

在宅で看られなくなった時の為に、終末期医療を行っている病院へ面談に行きました。

9月21日

実家に介護ベットが運び入れられました。

そして9月26日、母退院。


次回の外来、10月5日の時点で、もう一度カテーテル塞栓術ができるようならやりましょうとの説明。

母は、もう癌は今回で全部取れていると思っていたので、

増えなきゃいいな。

と、ポツリとつぶやいていました。
増える以前に、まだ全然減ってないのよと、母の気持ちを思うと涙が出そうになりました。

介護申請を受けたばかりだったのでヘルパーが付けられず、毎日、朝昼晩と、両親の食事作りに通いました。

9月28日

別のホスピスの面談。
医療費が月に25万円かかるという事を聞いてきました。
更に、2ヶ月待ちは確実との事。2ヶ月か…。命の期限を過ぎてるな。

10月2日

在宅看護の為の医者と看護師さんが初めて実家にやってきました。


この頃から痛みが少しずつ強くなってきていたので、飲むモルヒネである、オプソという水薬が初めて処方されました。

自分が末期癌だとは思っていない母に、

痛んだら何度でも飲んでいい痛み止めだよ!

と先生が言うと、

痛み止め、そんなに飲んじゃダメでしょ!手術後の痛みなんだからそのうち治るだろうし、飲まなくて平気よ。

と、言ってました。

末期だと理解していない母に、今更、あと数ヶ月だよ!とは言わないでおこう。
そう決めた事が良かったのか、サッパリ分からなくなりました。

そして、このオプソが、あれほどまでに人格を変えてしまう薬だとは、この時は思いもしませんでした。


つづく
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肝細胞癌末期 在宅看護3

2015年04月04日 | 末期癌在宅看護

余命2カ月宣告を受けた母との、最後の旅行記です。

2012年8月26日

新千歳空港へ到着すると、レンタカーを借り、小樽へ向け走り出しました。

全く食欲のない母が 小樽でお寿司を食べたいと言っていた事を思い出し、以前訪れた事のあるお寿司屋さんへ連れて行きました。

無理をして、美味しい!と言っていた母。
素麵もやっと喉を通る位なのに美味しいだなんて。
それでも皆がしらけないのように、ニコニコと楽しそうにしていました。


食事の後は、石原裕次郎記念館へ。



裕次郎ファンの母は、青春を取り戻したかように、生き生きとした表情をし、沢山話をしていました。



私、裕次郎そんなに知らないよ!
と言うと、
あらー、ジャニーズみたいな人なのよ!
と、少女のように話してくれました。
連れてきて良かったと思った瞬間でした。


母の体力を考え、小樽運河は車窓から眺めてもらい、今夜の宿、定山渓温泉へ移動しました。


宿の大浴場では一苦労。
体力が無くなり、痩せ細った母の体を支えながら入浴しました。
汗だくでしたが、残り少ない母との時間を噛みしめながらの入浴は、忘れることの出来ない想い出です。
温泉が大好きな母は、露天風呂で嬉しそうにしていました。


8月27日

翌日は、登別温泉へ向かいました。
細川たかしで有名な真狩村で休憩。
道の駅真狩 には、細川たかし記念館がありました。
母は、恐る恐る剥製の熊を触っていました。



ランチは、ニセコのミルク工房レストラン。ビュッフェだったで、母も頑張って少し食べていました。食べるというより、押し込むという感じが見て取れ、心が痛みました…。

羊蹄山がとても綺麗でした。

ひまわりも咲いていました。



疲れたのか、車の中でグッスリ眠る母を連れ、今夜の宿、登別温泉まほろばへ向かいました。

体力的に観光が出来ないので、部屋から地獄谷を眺め嬉しそうにしていました。


母がゆっくり休めるよう、今夜も部屋は2つ取りました。


夕食は妹の希望で、私たちはバイキング、両親は個室での食事となりました。夫婦水入らず、かえって良かったかもしれません。



食事の後、夜の温泉街を散策しようと、フロントで車椅子を借り、妹が母の部屋へ迎えに行きましたが、疲れて無理との事。
温泉街が大好きな母でしたが、最後の温泉街は実現しないまま終わってしました。
本当は、母も行きたかったと思います。
それでも疲れに勝てず諦めたのでしょう。きっと心残りだったに違いありません。


最終日、空港へ向かう前に、苫小牧のノーザンホースパークに立ち寄りました。父は昔、裸馬に乗っていたらしく、馬を見ると途端にお喋りになり、母と仲良く楽しそうに話しをしていました。

母の体力を考え、カートを借りて園内を移動しました。

あっという間の三日間でした。

母は体力的にかなり厳しかった事でしょう。それなのに弱音を吐かず、いつものようにニコニコと。
人を悪く言わない、本当に優しかった母との最後の家族水入らずの旅行はこうして幕を閉じました。

もう一度、こんな旅がしてみたかったな。

つづく
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肝細胞癌末期 在宅看護2

2015年04月04日 | 末期癌在宅看護
末期癌で余命2カ月との診断を受けた翌日、母はドクターヘリを持つ大病院へ入院しました。

明日、カテーテル塞栓術が行われる為、早めに就寝させ、私は病院を後にしました。

ドタバタと、一気にあれこれ課題がのしかかって来た事と、母の命の灯が消え行く日が近い事がとても悲しく、苦しく、母の看病と、食事が作れない父の世話と、私の家族の事を考えると、寝ている時間がなんて無駄な事かと思えるようになりました。

その頃、父は元気そのものだったので、介護認定も受けておらず、ヘルパー派遣ができない状態でした。
食事が作れない父の為、それも考えなくてはなりません。
頭が混乱する程の課題が一気に押し寄せて来ました。

私も辛かったですが、父はもっと辛かった事でしょう。
いきなり料理上手の奥さんが入院。
夜は娘の手料理だとしても、朝は残り物、昼は宅配弁当を充てがわれている。
でも娘は妻の看病をしてくれているから文句は言えない。これから自分はどうなるのだろう。

と、きっと思って事でしょう。

父の夕食なんて、夜病院へ行く前に、タッパーに入れた二品くらいを ハイ!と置いてくるだけでした。手作りではあるが、愛情こもった とは言いがたい、父の一人飯の始まりがこの日からでした。

近くに住む妹は仕事を持っている上、中学生と高校生の子供がいたので、全くあてにはできず。
せめて、父の食事の世話をしてくれないかと、何度も妹に文句を言いたい衝動にかられました。

頭の中で問題が山積みになっていて、どこから手をつければいいのかわからなくなりました。

どうすれば皆の生活が上手くまわるんだろうかと、来る日も来る日も、そればかり考えていました。

介護も看病も 当事者しかわからない苦労が多々ある事を学びました。
頑張って!の一言で片付かない、奥深い課題や大変さ。

一番辛いのは誰?

それは母だよ!!

と自分に言い聞かせながら、ただただ1日1日を過ごしていました。


入院の翌朝早く病院に行くと、手術着に着替えた母が心細そうに私を待っていました。

手術と言っても、鼠蹊部からカテーテルを通すだけなので、局所麻酔。
モニターを見ながら手術をする先生方の会話は全て聞こえていたようです。

カテーテル塞栓術とは、足の付け根の動脈(大腿動脈)周囲に局所麻酔をして、「細い管(カテーテル)」を肝臓の動脈まで入れて写真を撮ります。
肝臓の動脈は、お腹の大動脈から何回か枝分かれして出ていますが、写真で見ただけではどこにあるのか分かりません。そこで、造影剤という薬を動脈の中に注入しながら(血管造影といいます)、順次カテーテルを肝臓の動脈まで進めていきます。
(その造影剤を飲む行為で、母は吐き気を催し、後の外来の検査ではとうとう吐いてしまいました。)

初めてのカテーテルなので、時間は1時間半程度との説明があり、母が手術室に消えて行きました。

1時間半後、意識がはっきりした母がストレッチャーに乗せられ出てきました。

腰が痛い。体勢変えちゃダメなんだって。あと3時間、上を向いたまま寝てないといけないみたい。

と、しきりに腰の痛みを訴えていた母。

医師の説明は、大きな癌の二つに薬剤を投入した。あくまでも破裂しそうな癌のみにですとの事でした。

とりあえず破裂の心配はなくなった。その為だけの手術だったのに、術後の苦痛が大きすぎる。果たして、手術を選択して良かったのか?
手術をせずに、食欲モリモリ、寿命が来る日まで普通に過ごさせた方が良かったのか?考えさせられました。


天然で前向きな母は、

先生方が成功した!って言ってたのよ。良かったわ~。取れたって言ってたわ~。

と、やたら嬉しそうに話してくれました。

良かったね~!これで元気になれば帰れるね!

うん、3週間で退院していんだってよ!良かったわ~完治して!

と、完治したと思い込んでいる様子でしたので、以後、余命の事は口にするのをやめました。ですから、騙す感じで最期を迎えさせてしまった形になりました。


腰の痛みを堪え、3時間後、やっと横向きで寝られるようになり、疲れたのかすぐに眠りについた母。
明日はきっと元気になっているだろうと、私は家に戻りました。

しかし、翌朝早く病院へ行ってみると、肝機能が著しく低下していて、食欲ゼロ。昨日までバクバク食べていたのに たった1日で全く食べられなくなってしまいました。

私は毎日、朝早く病院へ行き身支度の世話をし、昼ごはんの見守りをし、薬を飲ませ帰宅。
更に夕方、家族の夕食を準備するとすぐに病院へ通い、何も食べられない母へ 大好きだった素麺を茹でて持って行き、何とかそれだけ食べてもらっていました。

無理、素麺も食べられない。

という日が来るのもそんなに遠くありませんでした。

末期癌で余命2カ月、しかも肝細胞癌なので、本当は、食事をするとそれが癌の栄養になってしまうらしいです。
それでも医師は、

少しでも食べてね~。

と言うのです。

矛盾していますが、生きているのだから食べるのが普通。でも栄養は癌へ行ってしまう。あー、どうすればいいんだろう。苦痛を感じるのに食べろと言い続けるのは酷だし。でも食べないとどんどん体力落ちちゃうし。

などと、思い悩みました。

悩んだ挙句、もう母に任せよう。
母が食べたければ食べればいいし、食べたくなければ食べなければいいからと、その選択を母に委ねました。

母は頑張って食べていました。五分の一の量、一口程度でしたが、毎日頑張って食べていました。

素麺はその後も毎日茹でて届けました。



3週間後、2012年8月24日 退院

次回の外来は9月4日

主治医は、母の体力があるうちにやりたい事をやらせてあげて下さいとおっしゃったので、

母を北海道へ連れて行っていいですか?

と、思い切って相談しました。

すると主治医は、

もう何も止めないので、無理のないゆったりとした計画をして、ぜひ連れて行ってあげて下さい。

と言ってくれました。

母に話すと大喜び。反対して激怒する父に対し母は、

私、北海道行きたいわよ~。また入院したら又行かれなくなっちゃうから、この退院の間に行きたいわ!

と、強く訴え、最後の旅行を家族四人水入らずでする事が決まりました。

退院してたった1日で準備をし、何とか飛行機と宿の手配をし、二日後の8月26日から、二泊三日で北海道の旅に出ました。

羽田空港までは私が運転して行きましたが、空港内を移動する時、100メートル歩くと立ち止まる、辛そうな、でも楽しそうな母の姿がそこにはありました。

つづく
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肝細胞癌末期 在宅看護 1

2015年04月04日 | 末期癌在宅看護
少し、亡き母の事を書きたいと思います。


末期癌の宣告は、ある日突然やってきました。

その前に、とても不思議な事があったのでその話をしますね。

母が亡くなる一年前から、何故か私は、母親孝行なるものを頻繁にするようになっていました。

母を連れてのドライブ。
若者の街、お台場のビーナスフォート、ダイバーシティー、アクアシティー、フジテレビ、表参道、海ほたる、富津で海鮮丼とビール!そしてディズニーランド

又、ある時は、銀座のデパート巡り、伊香保の日帰り温泉…等、書ききれない程、母を連れて出かけました。もちろん大満足の母がそこにはいました。

父は?と言うと、今で思えば 前立腺肥立症から来るトイレの悩みで、遠出を嫌い、一緒に行く事は一度もありませんでした。何しろ、母より15歳も年上なので、出かけるパワーも母程はなかったのでしょう。

父に感謝!と言っては申し訳ないのですが、母と二人、仲良く楽しく、あちらこちらへ行かれた事は、平均寿命より短い生涯を閉じてしまった母への、一生分の親孝行だったと思うようにしています。
まるで、母の人生の終わりを知っていた神様が

今のうちに好きな事を沢山しておきなさい

と、母に楽しい時間を与えてくれたのではないかと思ったりもします。


そんなある日、母がミニドックの結果をかかりつけ医に見せたところ

肝機能の数値が平均の3倍なんて
癌かもしれないよ!大きな病院へ行きなさい!

と言われたと、即、私に連絡が来ました。それまでも毎週その病院に、何年も前から通っていたのに、何それ?と思ったそうです。

明日 紹介状持って病院行くから乗せてって。癌かもしれない!なんていうから、先生、癌じゃ困るのよ~って言ったのよ!

と、相変わらず天然な事を言って笑っていました。

とにかく検査に行こう!ということで、大病院へ連れて行くと

お腹触っただけでこんなに硬いのはおかしいな。
横になって!エコーします。

と慌ただしく話すドクター。

画像が映し出されるモニターを見ていたら、素人の私でさえ分かるほど、白くて大きな無数の水玉がありました。

そして、心の準備もないまま即座に、末期癌の告知がありました。

えー、本人の前でサラッと何て事言うのよ!

というのが正直な気持ちでした。

これは癌だね!末期も末期だよ!!
手術できないね!
やるとしたら、カテーテル塞栓術で破裂しそうな癌に直接薬入れて殺すしかないね。
それでも二つやっけるのが精一杯。やった途端に肝機能が下がるから、食事も出来なくなるよ。
あなたの癌は無数にあるから、一回目に二個やってみて、経過が良ければ来月二回目をやるけれど。
どうせ全部は消えないから、やっても余命2ヶ月かな。
やらなかったら明日かもな。
お腹に飛び出てる癌に何かが当たったら破裂してすぐ死んじゃうよ。

とおっしゃいました。

確かに二つの癌は、とても大きな水玉模様で、お腹の断面を突き上げていました。

母は今自分に置かれている状況がサッパリ判らずと言ったところ。
とても焦った顔をしていました。

しかし、診察が終わると私に

やれば治るからやるね!

と、末期 という言葉が聞き取れなかったのか?
説明自体聞き取る余裕がなかったのか?天然の母だからこそ、プラスに考えてるのか?

余命宣告後とは思えぬ表情で話しかけて来ました。

そうだね。がんばろー!

としか言うのが精一杯の私。


入院前の採血、レントゲンが行われました。
その合間に、父や母の姉弟に連絡し、末期癌である事や、余裕2カ月である事を伝えました。
皆、絶句でした。
さっきまであんなに元気だった母の身におこった事実を皆受け入れられない様子でした。

入院手続きをし、その日は外泊許可が下り、とりあえず帰宅できました。

朝から何も食べていなかったので、帰宅前に病院の食堂でモリモリ食べたラーメンが、食欲旺盛な母を見た最後になりました。
腕には名前のバンドをし、ニコニコ美味しそうにラーメンを食べる母。
最後の外食が病院のラーメンだったなんて。
もちろん帰宅してからの夕食と、翌日の朝食は完食しましたが。

余命2カ月とはとても思えないほど、本当に血色が良く、食欲もありました。


肝臓癌は、自覚症状が出にくいそうで、気付いた時には末期という事が多いそうです。

今思えば、母は昔からアザが出来やすく、すぐに青タンになっていました。

掌の盛り上がった部分が イチゴのように真っ赤なブツブツが透けて見えていた事や、注射をするとその周りが内出血し、直径10センチほどの青アザになった事。
亡くなる一年前から、痩せているにも関わらず、血圧が160を越え出した事など、気になる点は多々ありました。

しかし近所のかかりつけ医の下、毎週健康診断を兼ねて通っていたので、まさか末期癌だなんて、誰も思わなかった訳なのです。

祖母と叔父はB型肝炎からの肝臓癌でした。叔父は55歳で亡くなっています。

母がまだ70歳の、ある日の出来事でした。

つづく
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