名馬電機社長の事業報告という名の日記

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メイショウサムソンという馬(3)

2012年04月26日 | 競馬
4歳となったメイショウサムソンの始動は阪神の大阪杯。シャドウゲイトやコスモバルクが人気をしていたが、コース形態の似ている皐月賞を思い出させる早めスパートからの安定感のある競馬を見せて快勝。春の天皇賞制覇に向けて上々のスタートを切った。

天皇賞春が行われる京都外回りコースは、前年の菊花賞もそうだが、2歳時の萩Sでも馬券圏外に沈んでいるようにあまり得意としているコースではなかった。そのためか、人気は阪神大賞典勝ち馬のアイポッパーに続く2番人気となった。
レースはユメノシルシが引っ張り、メイショウサムソンは前から9番手、ちょうど隊列の真ん中あたりにつけた。淡々とした流れでレースは進み、迎えた二度目の3コーナー手前、ここで縦長だった隊列がぎゅっとひとかたまりに凝縮されると、早くもメイショウサムソンは追撃を開始。坂の下りを利して馬群の外目を馬なりで上がっていくと直線では先頭に。最後はさすがに勢いは止まっていたが、エリモエクスパイア、トウカイトリックに内外から並ばれるとそこからファイトバックして見事優勝。優れた勝負根性と持久力を示す一戦であった。

道悪の中で行われた宝塚記念。外枠ということもありいつもより後方からの競馬となったメイショウサムソンだったが、3コーナー過ぎから一気に進出し、直線では先頭にたついつもどおりの競馬。その外からアドマイヤムーンが差してきたが馬体を併せればもう一伸びするはず、と思われたがこの日は違った。石橋騎手がアドマイヤムーンに馬体を併せに行くと、アドマイヤムーンの鞍上岩田騎手は右ムチを入れ更に外へ、馬体を接近させず一定の距離を保ったまま走らせた。馬体を併せられなかったメイショウサムソンは何か勝負根性が空回りするかのような走りになってしまい2着。

宝塚記念後、驚きのニュースが流れた。以前から話が出ていた凱旋門賞挑戦のニュースが発表されたのだが、その鞍上が武豊騎手に決まったという。松本オーナーは騎手の起用に関して一切口を挟まない事で有名な方である。それはメイショウサムソンについても同様で、「石橋くんを変えようと思ったことはない。」と明言していた。にも関わらず、皐月賞の後に「ずっと石橋さんを乗せてあげてくださいね。」と言った武豊騎手への乗り替り。娘さんには「お父さんらしくない。」と責められたとも言う。その理由について松本オーナーは詳しくは語られないが、その後ずっとこの判断をした事を気にしていたらしいので、「日本最高の馬に最高の騎手を乗せて凱旋門賞に挑戦したいという我儘」という表向きの理由以外の何かがあるような気もするのだが、ともかく、この乗り替わりは武豊騎手、石橋守騎手を含めた他の騎手もいる前で松本オーナーが直接伝えられた。
乗り替わりはこの世界の常とはいえ、石橋守騎手も多少なりともショックはあったであろう。しかし石橋騎手は武豊騎手にメイショウサムソンの癖や特徴を事細かに伝えた。乗れないと決まってもメイショウサムソンがベストの状態で出走できるようにしっかりとサポートを行ったのだ。

しかし思わぬ形でこの凱旋門賞挑戦の計画は頓挫する。この夏日本競馬界を襲った馬インフルエンザにメイショウサムソンも感染してしまい遠征断念を余儀なくされた。陣営は予定を変更して目標を秋の天皇賞に変更せざるを得なくなった。

武豊騎手を背に初めて走るレース。その競馬ぶりに注目が集まったが、その効果は目に見えて現れた(石橋守騎手ファンとしてもそのことは認めざるをえない)。1枠からスタートしたメイショウサムソンはインコース4,5番手につける。そして直線に向くとコスモバルクに端を発する不利の連鎖をよそにコスモバルクがよれたことによって生じたスペースを瞬時について突き抜けると完勝。「溜めて伸びる」瞬発力型の競馬をしてみせた。どちらが正解とはいえないが新たな面を引き出すことに成功した。

新パートナーを得て再びメイショウサムソン時代が訪れるかと思われたが、実際は厳しい道程だった。前年に続き参戦のジャパンカップは3着、有馬記念は8着と敗れた。年が変わってもその輝きは取り戻せず産経大阪杯で6着に敗れたあと、天皇賞春、宝塚記念とともにそれなりには走っているがイマイチ煮えきらず連続2着。いずれもG1未勝利馬にタイトルを献上する結果になった。

このような必ずしもベストではない状況の中にあっても陣営は前年叶わなかった凱旋門賞挑戦をあきらめなかった。そこには松本オーナーの中に「石橋守騎手を『日本一の馬に日本一の騎手を乗せての凱旋門賞挑戦』を大義名分に下ろしてしまった以上、凱旋門賞に行かない訳にはいかない。」という思いがあったのかもしれない。帯同馬も用意し、陣営はベストを尽くした。しかし最盛期の輝きを失ったメイショウサムソンにとって、世界最高峰の舞台の壁は厚く、後方のまま成す術なく10着と敗れ去った。

帰国後、ジャパンカップは武豊騎手の落馬負傷により約1年半ぶりに石橋守騎手とコンビを組むも6着。再び武豊騎手とのコンビで挑んだ有馬記念は8着だった。そしてこの一戦を最後にメイショウサムソンは現役を引退。27戦9勝、G1を4勝。2歳の夏から5歳のフルシーズンをほぼ休みなくOPクラスで走り続けたタフな競走馬生活であった。

2009年1月4日、京都競馬場
メイショウサムソンの引退式が行われる昼休みのパドックにはメインレースに勝るとも劣らない多くのファンが集まっていた。そこに天皇賞春を制した時のゼッケンを付けて登場したメイショウサムソン。鞍上には「青,桃襷,桃袖」の勝負服を身に纏った石橋守騎手の姿があった。引退式の数日前、メイショウサムソンには武豊騎手が跨る予定だった。しかし娘さんの「どうして石橋さんは乗らないの?パドックだけでも乗せてあげればいいのに。」という言葉に、松本オーナーも「それもそうだ。」と競馬会に掛け合ったという。当初、時間的制約や前例がないことを理由に競馬会も首を縦に振らなかった。そこで松本オーナーはこう言ったという。

「それなら引退式をやめますか。」

「自らの我儘」を押し通すことでメイショウサムソンから降ろしてしまった石橋守騎手を再び「自らの我儘」を通すことでメイショウサムソンに騎乗させることとなった。
パドックでの周回を終えたメイショウサムソンは本馬場へ。本馬場でずっと待っていたファンはパドックで石橋守騎手が騎乗していることを知らず、その姿を確認すると自然と拍手が沸き起こった。そしてホームストレッチの外ラチ沿いをゆっくりと歩くメイショウサムソンが半ばに差し掛かった頃、もう一人の「青,桃襷,桃袖」、武豊騎手がいた。石橋守騎手は馬を降りると武豊騎手に手綱を引き継ぎ、メイショウサムソンは4コーナ奥へと歩を進める。一呼吸おいた後、ゆっくりと駆け出すと最後は現役さながらの脚力を披露。最後のターフを駆け抜けていった。


参考文献
・「優駿 2006年6月号」松本好雄オーナーインタビュー
・「週刊競馬ブック 2009年2月1日号」芦谷有香のオーナーサロン 松本好雄氏


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