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日本史授業で使えるエピソード(2)  アクティブラーニングへの疑問

2017-05-25 20:22:49 | 私の授業
(1)に続いて(2)を御紹介します。ここに挙げた小話は、いずれも私がかつて授業で触れたものばかり。一斉講義式の授業は一方的な知識伝達だけの悪い授業のように言われていますが、私も生徒たちも、結構楽しんで話したり聞いたりしていました。今流行りのアクティブラーニングでは、このような小話は取り上げにくいでしょう。伝記の類を片っ端から読み重ねて、私の頭のpcに蓄積した私の財産です。活用していただけるなら嬉しいことです。私が今非常勤講師をしている埼玉県の某高校では、アクティブラーニングによる授業を普段からしている先生は一人もいません。新人の研究授業などで、お義理でやることはあっても、日常的には不可能なのです。アクティブラーナーの先生たちに、旧態依然の授業と言われたくありません。一斉講義式の私の授業を楽しみにしていたたくさんの生徒たちが、私の背中を今も押してくれています。




青島攻略軍の凱旋門・・・・第一次世界大戦における青島攻略軍は、東京駅の開業式(大正3年12月18日)に合わせて駅前を凱旋行進した。

古河市兵衛の妻の自殺・・・・足尾銅山の経営者古河市兵衛の妻は、鉱毒地救済婦人会の会合にひそかに女中を出席させ、その報告を聞いて鉱毒被害の惨状を知り、その夜神田橋から投身自殺をした。

先人の遺風を懐かしむ詩・・・・日本最初の漢詩集『懐風藻』の序文に、先哲の遺風を忘れないために編纂したので、懐風と命名したと記されている。「藻」とは言葉巧みな言い回し、つまり詩藻のこと。

鍬(すき)がくわで鋤(くわ)がすき・・・・最初の遣唐大使犬上御田鍬(みたすき)と読むように、「鍬」は本来は「すき」で、「鋤」は「くわ」であった。しかし江戸期には「備中鍬」を「びっちゅうぐわ」と読んだように、「鋤」を「すき」と読んだ。「鋤」の「助」を「すけ」と読むことに引きずられて逆転したためか?

鎌倉土産の鳩サブレ・・・・鳩は八幡神の使者と信じられ、源氏に関わる瑞祥として史料に頻出。八幡宮の神額の「八」の字は、鳩が向かい合う「向かい鳩」になっている。

スペインのハポンさん・・・・支倉常長による慶長遣欧使節がスペインに長期滞在したてため、使節団の一部が帰国せずに定住し、その子孫はハポン(スペイン語で日本のこと)姓を名乗った。現在も700人のハポンさんがいる。

庄内藩の現代の「殿様」・・・・天保年間に、庄内藩主を越後長岡へ転封する計画が明らかになった「三方領地替え」事件において、庄内藩の農民は猛烈な反対運動を組織し、「殿の居成り」を願った。藩主の直系子孫は、今も鶴岡市民から「殿はん」と呼ばれて慕われている。

震災瓦礫で作られた公園・・・・横浜の象の鼻波止場からフランス波止場にかけて整備された山下公園の地下には、関東大震災で生じた膨大な量の震災瓦礫が埋められている。

越後屋の傘の貸し出し・・・・三井越後屋では雨が降ると、店の商標入りの傘を客に貸し出した。これはそのま        ま店の宣伝となり、大評判となった。

真珠湾攻撃の予行演習・・・・真珠湾攻撃が立案されると、鹿児島の錦江湾で訓練開始。真珠湾が山に囲まれ、中央にはフォード島があり、湾岸には市街地が広がる地形が、鹿児島市街と桜島のある錦江湾に似ているためだった。

ソウルオリンピックの最終聖火ランナー・・・・ベルリンオリンピックでは、朝鮮人の孫基禎選手が日本代表としてマラソンで優勝。朝鮮の東亜日報は、表彰台の孫の胸の日の丸を削除して写真を掲載。ソウルオリンピックでは聖火の最終ランナーとなり、ベルリンでの優勝より嬉しかったと語った。

卒業式の女袴・・・・明治後期に、着物で椅子に坐ると裾が乱れるとして、女学生が男用の袴を履き始め、華族女学校(後の学習院女子部)が採用して流行。華族の子女は高貴な紫色の袴。一般女学生は遠慮して海老茶の袴を履き、紫式部をもじって「海老茶式部」と称した。大正期には編み上げ革を履き、髪を高く結い、大きなリボンをつけるのがハイカラであった。

明治天皇の遊び相手・・・・西園寺公望は11歳で御所に出仕し、3歳年下の睦仁親王(後の明治天皇)の遊び相手となった。後に民権派の東洋自由新聞社長となるが、明治天皇の勅により辞任を迫られると、さすがの西園寺も応じざるを得なかった。

菊紋の太刀・・・・後鳥羽上皇は諸国から鍛冶の名工を集め、自らも槌を振るって太刀を鍛え、茎(なかご)に菊花紋を刻んだ。他にも衣服や懐紙など身の回りの調度品に菊花紋様を好んで付け、その後の天皇もこれを継承したため、次第に皇室の御紋と認識されるようになった。ただし公式に皇室の御紋とされたのは、明治2年のこと。

虫を食べそうになった将軍様・・・・吉宗の食事にはさみ虫が紛れ込んでいた。御膳係は切腹を覚悟していたが、吉宗はその虫を係の者に食わせ、異常がないことを確認してから、それっきり沙汰止みとなってしまった。

米一俵の重さ・・・・江戸期、幕府の米一俵は3斗5升入りが普通で、約52㎏。蔵屋敷の荷揚げ人足は絵図ではみな2俵を担いでいるが、中には3俵担ぐ者もいた。ちなみに明治末期には、一俵は4斗入り、約60㎏となった。

大仏を鋳つぶして作った銭・・・・寛文年間に鋳造された寛永通宝は、秀頼が造営した方広寺の大仏を鋳つぶして作られた。裏には寛文の「文」の字が鋳込まれているのですぐにわかる。

駱駝の瘤の数・・・・一瘤はアフリカから中東に、二瘤は中央アジアに生息。正倉院の螺鈿紫檀五絃琵琶の駱駝は二瘤。

火事につよい仏像・・・・脱乾漆像はいわば張り子のようなもの。興福寺は創建以来7回も被災しているが、阿修羅像などの八部衆像は重さが台座を含めても二十数㎏しかなく、担いで避難させることができた。鑑真像は10㎏にも及ばない。

謎の古代乳製品・・・・律令制下で諸国から後納された「蘇」と呼ばれる謎の乳製品がある。『延喜式』には一斗の牛乳を煮詰めて一升の蘇を作ると書かれているが、それ以上のことは不明。チーズという説もあるが、想像の域を出ない。ただ脂肪率の高い牛乳を時間をかけて煮詰めると、それらしき物は簡単にできる。これがなかなか美味い。お試しあれ。

結果不平等を是認する『学問のすゝめ』・・・・福沢諭吉は「人の平等」を説いたわけではない。実用の学問をする者は「貴人・富人」となり、しない者は「貧人・下人」となるとはっきりと述べている。

遺跡の上の京都駅・・・・京都駅0番ホームは、秀吉が京都の市街を堤防でめぐらせて築いた御土居を利用して作られている。

学徒出陣猶予・・・・1943年から大学生・高等専門学校生の徴兵猶予がていしされたが、理系生や教員養成系の学生は猶予が継続された。

カラーテレビの普及・・・・東京オリンピックの頃、「オリンピックをカラーで見よう」というCMが流れたが、普及率は1%に満たなかった。

太陽暦導入の狙い・・・・太陽暦には1年が13カ月になる閏月がなく、月給制の人件費が節約できた。

銀箔のない銀閣・・・・「銀閣」の呼称は江戸期以降のもの。金閣に対比するためにそう呼ばれただけのこと。

和歌の通信添削・・・・源実朝は藤原定家に『万葉集』を贈られ、通信添削によって和歌を学んだ。

藤原京遷都の年・・・・平安京遷都のちょうど100年前。もちろんたまたまの偶然。

包帯を巻かれた仏像・・・・フェノロサの尽力により姿を現した法隆寺夢殿の救世観音に巻かれていた布の長さは、450mもあった。道理で保存状態がよいわけだ。

銅の融点・・・・銅単独の融点は1085度だが、232度が融点の錫と混ぜて融解すると、約700度まで融点が下がる。それで七輪と炭とドライヤーがあれば、家庭の庭先でも青銅は作れる。

鍬と鋤の相違点・・・・打ち込んで手前に引くのが鍬、前に押すのが鋤。スコップは鋤の一種。

近江商人の末裔・・・・伊藤忠商事・丸紅・西川産業・高島屋・日本生命・ワコールなどの大企業は、近江商人を起源にしている。

薩英戦争の人質・・・・五代友厚と寺島宗則は、薩英戦争の際にイギリス艦隊の人質として捕らえられた。

恩師の未亡人の生活費・・・・若い頃に恩師新島襄に迷惑をかけた徳富蘇峰であったが、貴族院議員としての給与をもらうと、封も切らずに新島襄の妻八重に手渡していた。

法律家から画家へ・・・・黒田清輝は法律研究のためにフランスへ留学したが、途中で画家に転向した。

船成金の大盤振る舞い・・・・内田汽船は1915年に60割もの株式配当を行って、世間の注目を浴びた。

遣唐使船の遭難・・・・第16次遣唐使船4隻のうち、何とか唐にたどり着けたのは、空海の乗った第一船と、最澄の乗った第二船のみ。他は行方不明。空海と最澄も、乗る船が異なれば、歴史に名を残すことはなかった。

帰国しそこねた日本人漂流民・・・・遠州沖で遭難し、14カ月後にカナダに近いアメリカ西海岸に漂着した音吉は、モリソン号で三浦半島沖まで来ながら帰国できず。1854年日英交渉の通訳を務め、後にイギリスに帰化した。

うっかり触れぬ大判・・・・大判には品位を保証するため、「拾両後藤」の文字と、金座の後藤家当主の花押が墨書きされている。ただ筆で書かれているだけなので、こすれば消えてしまった。消えてしまうと手数料を払って再び書いてもらうことになる。つまり大判は流通させずに、贈答用などとして大切に保管されたということ。 

古河はどこの国にあった?・・・・古河公方は下総の古河で公方を称し、熊沢蕃山は下総の古河に幽閉された。現在は利根川が県境で古河は茨城県だが、当時は小貝川が国堺だった。

有楽町の起原・・・・東京の有楽町は、織田信長の弟である織田有楽斎の屋敷があったためと言われるが、名前の類似による俗説で、彼自身はそこに住んだことはない。

おむつの取れない将軍様・・・・鎌倉4代将軍九条頼経は、鎌倉に来た時はわずか2歳だったので、北条氏は思うままに操れた。

仏像に適した木材・・・・仏像は本来は香木で作られるものであった。日本にある香木で太くなるのは楠である。法隆寺の百済観音像・救世観音蔵、中宮寺の弥勒菩薩像はみな楠で彫られている。ただし新羅の半跏思惟像に酷似している広隆寺の弥勒菩薩像は、朝鮮半島に多い赤松で作られていて、渡来人との関係が濃厚。

有平糖とは・・・・錦絵「士族の商法」に見える「有平党」は金平糖などと共に渡来した南蛮菓子「有平糖」をもじったもの。もともとは砂糖と水飴に様々な色素を加えて加工した飴細工のこと。理髪店の赤・白・青三色のサインポールは、有平棒とも呼ばれた。

銀座の街路樹・・・・明治初年には桜・楓・松が植えられたが、地下水位が高く枯死したため、水に強い柳に替えた。それも関東大震災で焼け、プラタナスに替えた。しかしそれも空襲で焼け、現在は「昔恋しい銀座の柳」と昭和初期に歌われたやなぎが復活。現在、銀座の祭は「柳祭」と呼ばれている。

衆議院議員選挙投票辞退・・・・第一回総選挙で、福沢諭吉は自分に投票しても議員になる気はないので、自分に対する投票は「無益」であるという新聞広告を載せた。当時の選挙は立候補制ではなく、議員にしたい人を選ぶ選挙だった。

万葉集のギャグ・・・・万葉集にはクイズまがいの表現があり、「戯訓」と呼ばれている。「二二」で「し」、「十六」で「しし」、「八十一」で「くく」、「少熱」で「ぬる」、「牛鳴」で「む」。現在なら「モー」となるところ。「喚鶏」で「つつ」。鶏を呼び寄せる時には、一昔前までは「トートトトト」と呼びかけていた。

サンフランシスコまで何日かかる?・・・・咸臨丸は浦賀から37日、ただしエンジン駆動は3日のみで、ほとんどが帆走。岩倉使節のアメリカ号は大型の外輪船だけあって22日で到着。


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