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お年玉の由来(出鱈目な流布説)

2018-04-15 20:05:10 | 年中行事・節気・暦
 国語辞典で「年玉」を検索すると、「使用人や子供におくる新年の贈り物」と説明されている。どこにも現金とは記されていないが、事実上は現金の場合が多いようだ。この年玉の起原や由緒について、伝統的年中行事の解説書やネット情報には、だいたい次のように説明されている。「年玉は本来は餅であった。そもそも正月の祭とは年神を家に迎えてもてなすことで、年神は新年の幸福としてその霊魂を私たちに分けてくれる。しかしそれは目に見えるわけではない。年神の霊魂は鏡餅に宿ると信じられていたから、それぞれの家の家長がその餅を年神に代わって家族に分け与える。これが年神の霊魂、つまり年玉なのである」、というのである。
 多少表現の相違はあるにせよ、年神霊魂分与ということはほとんどの情報に共通していて、すっかり定説のようになっている。しかし例によって根拠となる史料は示されず、決まって「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」というだけなのである。民俗学的にはそのような事例が、古老の話として各地で採録されているのであろう。しかしそれはこの現代に採録された資料であって、起原に関わる史料ではない。
 新年に祝儀として品物を贈る習慣は、近世の文献にたくさん記録されている。『日葡辞書(につぼじしよ)』(1604年)という日本語とポルトガル語の辞書には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されている。北村季吟(きぎん)という国学者が著した『増山之井(ますやまのい)』(1663年)という俳諧書には、「としだま、年始の持参礼物をいへり」と記されている。『華實年浪草(かじつとしなみぐさ)』(1783年)という季語の詳細な解説書では、「年玉は祝儀として互いに贈答するもののことで、『年玉』という言葉は、年の賜(賜物)の略語であろう」と推定され、『日次紀事(ひなみきじ)』(1676年)という極めて信用の置ける歳時記にも、「凡(およそ)新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」、『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』(1851年)にも、「新年の賜(たまもの)と云なるべし」と記されている。江戸時代の口語大辞典である『俚言集覧(りげんしゆうらん)』の「年玉」の項には、例文として「扇屋よりかはず、(買わず)こなたかなたの年玉も云々」と記されていて、年玉として扇が広く用いられていたことを示している。文政から天保年間に記された百科事典的考証記である『海録』には、「俗に正月の賜物を年玉といへり」と記されている。
 滝沢馬琴の天保二年の『馬琴日記』には正月の半ば頃まで、連日のように知人が年玉を持って年始の挨拶に来ることが記されている。馬琴はその度に「年礼のためとし玉持参」と記録している。品名は「京扇」の他には記されていないが、文脈からして餅でないことは明白である。ネット情報には、歳暮は下位の者から上位の者へ、年玉はその逆であるとの記述がある。確かに現在ではそのような傾向はあるが、流行作家として著名な馬琴に、連日のように年玉をもった上位の来客があるとも思えない。また江戸時代には僧侶は四日から年賀廻りをするのであるが、その際に納豆を年玉として檀家に配る風習があった。納豆を作る準備は夏から始まるため、「年玉を寺は夏から心掛け」(白亀評万句合勝句刷 宝暦十三年)という川柳も残されている。ちなみに「納豆」という呼称は、『本朝食鑑』という江戸時代最大の食物事典によれば、寺の厨房である「納所」で作られることによる。幕末の江戸風俗を記録した『江戸府内絵本風俗往来』(上編巻之一)には、「町家の年礼」と題して、大店(おおだな)の主人が、「文庫を風呂敷につつみ胸に掛け、其中に年玉の品物を盛り、片手に小盆を携へた」小僧を連れて町内の年始の挨拶に出かけることが、図と共に記されている。以上の史料でも明らかなように、年始の挨拶に添えた品物を年玉というという史料は書ききれないほどあるのに、年玉の年神霊魂説は片鱗さえも見当たらないのである。
 このような年玉の理解は、明治時代でも続いている。『東京風俗志』には、「商人は年始の挨拶のため、得意先に年玉として手拭や摺暦などの品を配って歩く」、と記されている。また『東京年中行事』にも、商人が得意先に年玉として手拭や暦を配ったり、年始の挨拶に行くと記されている。またその家の子供に年玉として手土産をやるということが記されている。子供にもやることが記されているのは注目に値する。現在では子供が主たる対象になっているが、明治時代の末期には「子供への手土産」という発想が生まれてきている。現在では「年賀」「年始」と称してタオルやカレンダー配ったりすることがあるが、これこそまさにかつての年玉なのである。私は昭和25年(1950年)生まれであるが、子供の頃は親からお年玉として現金をもらうという風習そのものがなかった。家庭の事情で様々であったのだろうが、年上の大人が子供にお年玉として現金をやるようになったのは、日本の経済が急速に成長した昭和三十年代後半頃からのことである。
 
 史料「年玉とは」
「年玉・・・・民間にも年始に音物(いんもつ)(贈り物)を相互に贈答するも、人を賀し春を祝する祝義の信也。唯(ただ)和俗(日本の風習)年玉と称する、自(おの)づから瑞宝の義に相似たるも宜(むべ)也。今按ずるに、年玉は年の賜(たまもの)の略語か。」(『華實年浪草』巻一)

史料「明治時代の年玉」
①「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉とて染手拭、摺暦(すりごよみ)、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」(『東京風俗志』中の巻 年中行事)

②「年玉・年賀・・・・普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉といって手土産を贈ることが行はれているが、最も盛に行はるるのは、平生(へいぜい)出入りの商人が年礼のついでに、得意先に配って歩くお年玉であらう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略歴、盃なんどが最も普通のものである。」(『東京年中行事』一月暦)

 それなら実際に贈られていたものはどのような物だったのであろうか。もちろん餅ではない。近世の文献史料から拾い出せる物は、総じて各々の身分に応じたものや、家業で取り扱っているもの、あるいは縁起物が多い。何を年玉として配るかによって、その家の家業や身分がおよそわかるのである。『日次紀事』には、商家は必ず得意先に年玉を持って新年の挨拶に往くこと。医者は普段扱っている丸薬や軟膏類、庶民は「各作業の物」、身分の高い者は太刀や馬や服など、いちいち数えられないと記されている。『寛保延享江府風俗志』(『近世風俗見聞(けんもん)集』所収)には、「見世(店)を元日より開く商者は、年玉類足袋雪た用の物計(ばかり)なり」と記され、明らかに餅でないことがわかる。また同集の『宝暦現来集』(『近世風俗見聞集』所収)巻之三には、「桐箱入りの茶碗」や「子供向けの簡単な読み物(草双紙)」が年玉となっていたことが記されている。また同書巻之五には、「扇売、安永年中までは、元朝より扇々と云て、正月十四十五日まで、売来るもの」と記され、『武江年表』という江戸の地誌には、大晦日の夜には扇売の声がやかましい程であったと記されている。『塵塚談』(文化十一年、1814年、下巻)という随筆には、正月の玄関先に、年玉としてもらった扇の箱をこれ見よがしに井桁に積み重ね、その高さを自慢することがあったが、最近は扇に代わって有用の品を配るようになったと記されている。また江戸時代末期の風俗を叙述する『江戸府内絵本風俗往来』(中編巻之一、年始の受け)には、「年玉の進物の大方は扇子なり」と記され、正月二十日以後になると、この扇の入っていた空箱を買い集めに来る者さえいたという(同、上編巻之二、扇箱買)。とにかく最も目につくのは扇である。もっとも開閉もできない形だけの扇であることが多かった。僧侶の年玉は納豆であった。その他には鼠半紙(漉き返した灰色の半紙)、箸、貝杓子、樽酒、茶、保存のきく昆布・干鱈・するめなどの海産物、牛蒡(ごぼう)や蒟蒻(こんにやく)などの農産物、軽粉(白粉)、凧、蝋燭、掛軸、熊皮などを拾い出すことができる。
 俳人小林一茶は年玉の句をたくさん詠んでいて、ネットで「一茶の俳句データベース詳細表示」と検索すると一覧を見ることができる。その五二七から五五三番がお年玉の句である。その中には、自分が贈った年玉の茶や扇が、巡り巡ってまた戻ってきたことを詠んだ句がある。また「とし玉の さいそく(催促)に来る 孫子かな」という句があるから、子供のほしがる物の場合もあったであろう。個々の場合なら現金や餅のこともあったかもしれない。しかし本来の年玉は子供への贈り物ではなく、大人の社会の付き合いや主従関係の中で、新年の挨拶に添える品物だったのである。

史料「年玉の品」
「この士農工商及び僧徒神官、各贄(にえ)(献上する物)を執(と)り、互に相賀す。およそ新年互贈答の物を総じて年玉といふ。およそ諸商常にその物を売る所の家、これを得意方といふ。新年必ず年玉を執(と)り、その家に行き新年を賀す。およそ大人小児の医、外科眼科針医各贄を執り、平生薬を施す所の家に行き新正を祝ふ。医家多く延齢丹、丁子円、万病解毒円、保童円、万応膏、太乙膏の類を贄となす。諸民に至りては各作業の物を相贈る。高貴の如きは太刀、馬代、時服等、贈答の物、枚挙に及ばず。(『日次紀事』巻一)

 
 年玉は年神様の霊魂を宿した餅であると書いている人へ、あなたは一体何を根拠に書いているのですか。私がここに示した数え切れない程の文献を否定し、かつ年神霊魂分与説を補強する圧倒的な質量の根拠を示せるとでも言うのですか。根拠もないのに出鱈目な説を垂れ流すことに、何も疑問は感じないのですか。私は敢えて過激な言葉を使っていますが、それは出鱈目な情報で日本の伝統文化を誤って伝えられることに対する義憤によっているものです。決して個人的な感情で文句を言っているわけではありません。反論はいつでも受けて立つつもりです。ただしその場合は、必ず史料的根拠を示すものでなければなりません。感情で激しい言葉を使っているのではなく、純粋に学問的な問題として怒っているのです。



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